生まれは1922(大正11)年。日本飛行連盟・名誉会長を務める高橋淳氏は、御年89歳の現役パイロットだ。赤十字飛行隊隊長として被災地に医薬品や医師を運ぶボランティアをはじめ、小型機やグライダーの教官として後進を養成するため、大空を飛んでいる。
「昨年の東日本大震災の時も物資を輸送しました。今も週に1回は必ず操縦桿を握っていますよ」
総飛行時間は約2万5000時間に上るが、現在まで無事故。その飛行技術の礎となったのは、先の大戦での経験だった。
小学生の頃から空に憧れた髙橋氏は、18歳で海軍飛行予科練習生(予科練)に志願。当初は2年で辞め、民間航空会社のパイロットになるつもりだった。しかし戦争の大波に呑み込まれ、太平洋戦争では大型双発機「一式陸上攻撃機」のパイロットとして出撃する。
「任務は敵艦への魚雷攻撃です。10機飛び立つと、帰還するのは良くて5機かな。海面スレスレに飛行し、敵艦まであと1キロの距離まで近づいて撃つから、機関銃の弾が雨のように飛んできて、当たりやすいんです。当初は1機7人編成だったけど、打ち落とされすぎて、その後5人編成になった。
戦争の攻撃にマニュアルなどなく、“戦艦の大砲は甲板より下を向かない”といった先輩の話を聞いて、自分で飛び方をアレンジするしかない。天候が悪い中、計器なしに飛ぶこともザラでした。今はGPSがあるから楽ですよ」
沖縄戦が終結した頃、部隊で残ったのは高橋機だけだった。何が生死を分けたのか。
「仲間の命を預かるのは僕。どんなことがあっても帰ってくると念じ、同乗者には絶対に遺書を書かせなかった。精神論といわれるかもしれないけど、こうした強い思いを持つことは本当に大事。戦争しているとわかるんです。出撃前に“今日の飛行は厭だな”と口にした者や、普段ルーズなのに何気なく身の回りを片付けて飛び立った者、搭乗前に爪を切って乗り込んだ者……皆、帰って来なかったからね」
撮影■丹羽敏通
※週刊ポスト2012年9月14日号