内戦の続くシリアで凶弾に倒れたジャーナリスト・山本美香さん(享年45)の死は、日本メディアのみならず、世界各国で大きく報道された。英BBCは2分以上にわたって報じ、米国務省報道官も哀悼の意を示した。公私におけるパートナーとして彼女を支えた、ジャパンプレス代表の佐藤和孝氏(56)が、17年前にふたりが出会った頃からの友人である作家・高山文彦氏に“想い”を語った。
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――そもそもふたりはどうやって知り合ったの?
佐藤:美香は大学を卒業した1990年にCS放送の朝日ニュースターにディレクターとして入社して、雲仙普賢岳噴火(1991年)の取材をやったり、報道現場を何年か経験した。
――雲仙では当初、被災した住民に取材しようとしてもなかなか話してもらえなかったみたいだね。でも、彼女は現地に何日も泊まり込んで後片付けの手伝いをしながら、やっと話を聞かせてもらえるようになった。彼女は家庭用ビデオカメラを1台持って一人で取材していたんだよね。
佐藤:当時は報道現場でもカメラマン、ディレクター、音声マンなど3~4人のチームで動くのが当たり前だったから、かなり奇異に見られていたみたい。彼女は一人で撮影から取材、編集までこなすビデオジャーナリストの先駆けだった。
その後美香は報道から外されて、総務関係の部署に異動になったのをきっかけに1995年に会社を辞めてしまった。その前後に結婚をしていったん家庭に入ったけれど、すぐに僕が所属していたアジアプレスに出入りするようになった。
――ちょうどその頃、僕も彼女に会わせてもらったよね。まだ28歳くらいか。本当に可愛いらしい子だった。
佐藤:とにかく一瞬で惹かれたよ。一目惚れだった。好奇心にあふれていて、輝くような瞳が印象的だった。
彼女は僕がボスニアの内戦を取材したドキュメンタリー『サラエボの冬~戦火の群像を記録する』(1994年、NHK-BSで放送)を見てくれていて、初めて話した時に「戦場で生きている人々を描いていて感動した」といってくれたんだ。
――人の話を真剣によく聞く子だった。
佐藤:外ではいい子、家ではものすごく暴れ者(笑い)。家の中を走りまわるのが好きで、機嫌のいい時は大きな声をあげたりして。とにかく少女みたいな子だった。
――いつか3人で飲んだ時に、ふたりをタクシーに乗せて見送っていたら、車内でずっと佐藤のほうを向いてしゃべりかけているのがわかるんだよ、さっきまで黙ってたのに(笑い)。
佐藤:よくしゃべる子だったよ。僕は家ではずっと彼女の話の聞き役だった。カエルの置物が好きでね。無事に「帰る」から縁起がいいって。
――彼女は前夫と離婚して、あなたと付き合い始めたんだよね。
佐藤:ご両親には本当に申し訳なかった。最初は受け入れてもらえなかったけど、ふたりで一生懸命やって取材の成果がどんどん放送されていくうちに、次第に認められるようになりましたよ。
※週刊ポスト2012年9月21・28日号