内戦の続くシリアで凶弾に倒れたジャーナリスト・山本美香さん(享年45)の死は、日本メディアのみならず、世界各国で大きく報道された。英BBCは2分以上にわたって報じ、米国務省報道官も哀悼の意を示した。公私におけるパートナーとして彼女を支えた、ジャパンプレス代表の佐藤和孝氏(56)が、17年前にふたりが出会った頃からの友人である作家・高山文彦氏に“想い”を語った。
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1996年にふたりはアジアプレスから独立し、ジャパンプレスを立ち上げた。以後、二人三脚で戦場取材をこなすスタイルを確立した。
美香さんは結婚を望んだというが、佐藤氏が家庭的な幸せを望まなかったため、籍を入れることはなかった。戦場での共同作業が愛の確認手段だったという。
――最初に戦場取材に行ったのはどこ?
佐藤:1996年にタリバン政権の支配下になったアフガニスタンに行った。当初は美香を連れて行くつもりなんて全くなかった。でも、出発直前に大喧嘩して、別れ話にもなって、怒りにまかせて柱を蹴ったら、右足の親指を骨折しちゃって(笑い)。そしたら彼女がますます心配して、「私も行く」って大騒ぎし始めた。
最初は覚悟があるのか心配だったけど、カブール市内のホテルに滞在中の深夜に、上空を飛ぶ飛行機に向かって近くの丘から曳光弾がバンバン飛んでいる様子を平気な顔して撮影していたから、これなら大丈夫かと安心した。
――どのくらいの期間行っていた?
佐藤:2か月近くいた。ふたりで行くのは初めてだったから大変だったよ。タリバン政権からビザを出してもらったんだけど、「お前たちは名前が違うから夫婦じゃないだろう。一緒の部屋に泊まってはいけない」っていうんだよ。つまり、2部屋とらなきゃいけなくなるから取材費が増える(笑い)。「俺たちは日本では夫婦ってことになっているんだ!」って押し切ったよ。
反タリバンの北部同盟を取材したりと、ソ連製のジープでアフガン中を巡る大旅行だった。もちろん彼女は頭にブルカ(ヴェール)を巻いてね。ベスートという地域に滞在中の夜、彼女のトイレに付き添って外に出たら、星が本当にきれいでさ。ふたりで眺めたあの星空ははっきりと覚えてる。
――その後、ボスニア、コソボ、アルジェリア、チェチェンと、数々の危険地帯に行ったんだよね。
佐藤:アジアプレスに対しても、美香のご両親に対しても、僕たちは仕事で認めてもらうしかなかった。日本テレビの「きょうの出来事」の取材で、年間4回戦場取材に行っていた。1回で1か月以上滞在するから、半年は海外にいたことになる。帰国中に編集し、次の企画書を書き、納品を終えたらすぐに取材に飛ぶ。そんな日々の繰り返しだった。
※週刊ポスト2012年9月21・28日号