いまなお世界の「セックス・シンボル」として絶大な人気を誇るマリリン・モンロー。人気絶頂のさなかに、36才の若さで亡くなってから今年でちょうど没後50年。今年に入ってから彼女の映画が公開されたり、書籍が発売されたりと今、あらためて注目が集まっている。
マリリン・モンローは18才のとき、工場を訪れた陸軍報道部のカメラマンに見出され、モデルになることをすすめられる。
カメラの前で美女を演じるとき、マリリンはそれまで味わったことのない快感に酔いしれた。自分ひとりのためにシャッターが切られ、多くの男性から必要とされる喜び。その後、ピンナップモデルの依頼が続々と舞い込んできた。成功の陰には、努力もあった。
「毎日、鏡を見ては魅力的に見せるための笑顔を練習し、『人体解剖学』を読んで人間の体の仕組みを研究。どんなポーズをとれば体のラインをきれいに見せられるかをマリリンはずっと考え続けていました。当時から美しいプロポーションを保つために、ウエイトトレーニングをし、毎朝のジョギングを欠かさなかったといいます」
と話すのは『マリリン・モンローという生き方』(新人物文庫)の著者・山口路子さん。
モデルエージェントの求めに応じて、茶褐色だった髪の毛をブロンドに染め上げたのもこのころだ。作家で小説『偽りのマリリン・モンロー』(集英社)の著者、松本侑子さんが言う。
「当時の技術ではブロンドに染めるのは大変なことで、毎月毎月、徹底的に染めなくてはきれいに見えない。彼女は薬剤のアルカリで頭皮がアレルギーを起こしていましたが、それでも亡くなるまでずっとブロンドの髪で通しました」
女優として新しい人生を歩むために、20才のとき弁護士を通じて夫に離婚を通告。映画会社・20世紀フォックスと契約、21才で映画デビューした。
しかし、それから数年間は泣かず飛ばずが続く。出演できたのは端役ばかりで、食べるためにモデルの仕事のほか、コールガール同然の生活を送っていたという。
デビューから6年後の1952年、そんなマリリンに追い打ちをかけるような事件が起こる。『イヴの総て』などに出演し、有望な新人女優としてようやく人気が出始めたころ、数年前に撮ったカレンダーのヌード写真がマスコミに流出したのだ。
マリリンに精通する作家の井上篤夫さんが話す。
「『本物か』とマスコミが騒然となるなか、彼女は『ええ、私はモデルになったわ。だって私は飢えていたの』と悪びれずに認めました。当時のアメリカは、まだ性に対する偏見やモラル意識も強く、本音が建前に覆い隠されていた時代。そんな建前を打ち破ったマリリンの発言は、逆に多くの人の共感を呼んで人気が急上昇しました。もっとも、このヌード写真の流出は、事務所が彼女を売り出すため、意図的にやったものという話もあるのですが」
※女性セブン2012年10月4日号