いまなお世界の「セックス・シンボル」で在り続けるマリリン・モンロー。人気絶頂のさなかに、36才の若さで亡くなってから今年で50年となる。
生涯にわたって恋の話題をふりまき続けたマリリン。1度目の結婚は、女優デビューする前、1942年の16才のとき。そして、2度目の結婚は、1954年1月、相手は10才年上の元ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオだった。
「子供の予定は?」と問う報道陣に、「1人は欲しいね」と答えたディマジオに対し、マリリンはうっとりと言った。
「子供は6人くらい欲しいわ」
そんなふたりがハネムーン先に選んだのは日本だった。マリリンの来日に日本のファンは熱狂し、滞在先の帝国ホテル(東京都千代田区)にまでファンがつめかけた。
しかし、この旅行中、マリリンは夫を日本に残したまま韓国に向かってしまう。1953年7月に朝鮮戦争が休戦したばかりで、大阪のアメリカ陸軍病院で傷病兵士に「韓国の病院にいる仲間たちも訪ねてください」と声をかけられたからだ。
独占欲の強いディマジオは反対したが、マリリンは慰問コンサートへと旅立った。氷点下の凍てつく寒さも苦にせず、マリリンは肌も露なドレスを着てステージに立った。大歓声を上げる数万人の兵士に、恍惚の表情で歌って踊るマリリン。『マリリン・モンローという生き方』(新人物文庫)の著者・山口路子さんはこう話す。
「彼女は3日間、兵士たちと一緒に軍の食堂で食事をとり、作業服姿で基地のなかを歩き回りました。彼らが何を求めているかがよくわかっていたから、それに必死で応えようとしたんですね」
後にマリリンは、「あのとき生まれてはじめて私は、自分が人々になんらかの影響を与えることができる、と感じたの」と振り返っている。
ディマジオを愛し、彼の気持ちを理解しながらも、抑えきれなかったマリリンの女優としての衝動。その底にあったのは、“常に誰かに求められたい”という切なる願いだ。
「マリリンは、“自分は誰にも求められていない”という幼少時の記憶からか、ものすごく寂しがり屋で、常に自分を必要としてくれる人を求めている。実はディマジオとの交際中にも、来るものは拒まずの姿勢で複数の男性とつき合っていました。
その男性を喜ばせてあげられる、いちばんわかりやすい手段がセックスだった。“誰かに求められている自分”が彼女には必要で、それを少しでも多くすることで、やっと精神の安定と満足感を得ることができたのでしょう」(前出・山口さん)
※女性セブン2012年10月4日号