松田哲夫氏は1947年生まれ。編集者(元筑摩書房専務取締役)。書評家。浅田彰『逃走論』、赤瀬川源平『老人力』などの話題作を編集。1996年からTBS系テレビ『王様のブランチ』本コーナーのコメンテーターを12年半務めた松田氏が、作家・埴谷雄高氏を振り返る。
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ある時期まで、作家は、生まれた年代、活動した時期などによってグループ分けされていた。戦後すぐに活躍を始めた「第一次戦後派」、続く「第二次戦後派」、さらに「第三の新人」などである。
ぼくが編集者稼業をはじめた一九七〇年のころ、「第一次戦後派」は五十五~六十歳ぐらいで、巨匠といった風格を備えていた。また、「第三の新人」は、四十五~五十歳ぐらいで、売れっ子も多かった。これらの作家たちに食い込んでいこうと思っても、とうてい無理な話だった。そこで、その下の世代、「焼け跡闇市派」の野坂昭如さんや井上ひさしさんにアプローチしたのだった。
ところが幸運なことに、第一次戦後派の巨匠中の巨匠、埴谷雄高さんの担当編集者になって、語り下ろし本の刊行をお手伝いすることができた。その後も折々にお邪魔して、楽しい話を聞かせてもらうこともできたのだった。
ところで、埴谷さんは文壇きっての病気通だった。病気、病院、薬などの知識は尋常ではなく、それを誰にでも惜しみなく教えていた。そこで、「病気の愉しみ」という企画を考えた。
埴谷さんは、「ぼくは、病気にだけは怠け者じゃないから」とさっそく病気話を始めた。心臓病の話になると、「心臓には足を冷やすのがよくない。わたしはいま靴下を五枚履いてます」と、やおら足を上げて見せてくれた。驚いていると、「真冬は七枚履きます」と付け加えた。
さらに、「若いときに患った結核によって、死がとても近しいものになり、病院で寝ているときに、個体の死から発して宇宙の死まで妄想がひろがったことがある」など聞き流すにはもったいない話が次々に出てくるのだった。
作家というものは、気難しかったり、風変わりな癖をもっていたりする。その上、言葉に対して鋭敏な感性をもっている。だから、ぼくたち編集者は、決して失礼がないようにと緊張していることが多い。ところが、押しも押されもせぬ巨匠である埴谷さんは、本当に気さくで気持ちのいい人だった。
※週刊ポスト2012年10月5日号