【書評】『誰も知らなかったココ・シャネル』ハル・ヴォーン著、赤根洋子訳/文芸春秋/1995円(税込)
【評者】笹幸恵(ジャーナリスト)
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女はいつの時代も華やかさに憧れる生き物だ。エレガントなファッション、贅沢な食事とウィットに富んだ会話、洗練された装飾品。そして恋人は洒落た紳士でなければならない。
そんな華やかな人生を生きたガブリエル・シャネル。自分の名をフランスの気品と洗練を表わすブランドにまで育て上げた。交友関係は華麗そのものだ。ストラヴィンスキー、ピカソ、コクトーといった芸術家たち、そしてロシアのドミトリー・パヴロヴィッチ大公、イギリスではウィンストン・チャーチルやジョージ5世の従弟であるウェストミンスター公爵など上流階級の人々。
しかし成功という名の光があれば、そこには当然影もある。彼女にとってそれは、第2次大戦中の自分の行動だった。本書は、シャネルがナチスのスパイだったことを示す決定的証拠を掴んだノンフィクションである。
1940年、ナチス・ドイツがパリを占領した。悲嘆に暮れるシャネルの目の前に現われたのは、ドイツ軍の情報将校ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵。運命の出会いだった。
〈五十七歳にして、シャネルは新たな恋に落ちる用意があった。だから、ディンクラーゲが一九四〇年にドイツ占領軍の高級将校として彼女の前に現れ、ナイトの役を進んで引き受けると、それは大恋愛へと発展した。それはシャネルの最後の大恋愛だった〉
彼女は、ドイツ軍の捕虜となっていた甥のアンドレ・パラスを救い出したいと考えていた。一方、ドイツ側はシャネルの交友関係に目をつけた。当時のフランスの上流階級によくあるように、彼女も若い頃から反ユダヤ主義者だったが、これも好都合だったに違いない。ディンクラーゲと恋愛関係に陥ったことを機に、ナチスは彼女を利用し始めた。
ドイツ軍情報部の台帳に登録されたエージェント番号「F─7124」。それがシャネルである。コードネームは「ウェストミンスター」。かつて愛し愛された公爵の名だった。スパイとしての自覚がシャネルにどの程度あったかはわからない。しかし彼女は、ディンクラーゲの手引きによって英独単独講和工作の仲介役となった。
マドリッドの英国大使館を通してウェストミンスター公爵と連絡を取り、チャーチルに講和を持ち掛けるというミッションである。もっともこれは、友人の裏切りがあって失敗する。
ナチスが敗北した時のシャネルの心情は本書には記されていないが、焦りや葛藤はあっただろう。ただし、それは善悪の価値観や道徳的観念に基づいたものではなく、あくまでもいかにして自分の身を守るか。その一点だったはずだ。もはや頼れる男はいなかった。
戦後、しばらく隠遁生活を送ったシャネルは70歳を超えていたにもかかわらずファッション界に復帰し、再びその才能を発揮した。一方で、自分の対独協力を知る「生き証人」の沈黙を金で買おうとした。回顧録の出版を考えていた「生き証人」に経済的援助を惜しまなかったのだ。「シャネルの名を出すな」という意味である。
本書は史料を元に淡々と記述しているが、読み終えて一抹の悲しさを覚える。女はつねに男に愛されたいと願いながら、結局、孤独だった。それもまたシャネルの抱えていた影である。
※SAPIO2012年10月3・10日号