ライフ

ナチスのスパイだった過去を隠し通したシャネルの苦悩描く本

【書評】『誰も知らなかったココ・シャネル』ハル・ヴォーン著、赤根洋子訳/文芸春秋/1995円(税込)
【評者】笹幸恵(ジャーナリスト)

 * * *
 女はいつの時代も華やかさに憧れる生き物だ。エレガントなファッション、贅沢な食事とウィットに富んだ会話、洗練された装飾品。そして恋人は洒落た紳士でなければならない。

 そんな華やかな人生を生きたガブリエル・シャネル。自分の名をフランスの気品と洗練を表わすブランドにまで育て上げた。交友関係は華麗そのものだ。ストラヴィンスキー、ピカソ、コクトーといった芸術家たち、そしてロシアのドミトリー・パヴロヴィッチ大公、イギリスではウィンストン・チャーチルやジョージ5世の従弟であるウェストミンスター公爵など上流階級の人々。

 しかし成功という名の光があれば、そこには当然影もある。彼女にとってそれは、第2次大戦中の自分の行動だった。本書は、シャネルがナチスのスパイだったことを示す決定的証拠を掴んだノンフィクションである。

 1940年、ナチス・ドイツがパリを占領した。悲嘆に暮れるシャネルの目の前に現われたのは、ドイツ軍の情報将校ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵。運命の出会いだった。

〈五十七歳にして、シャネルは新たな恋に落ちる用意があった。だから、ディンクラーゲが一九四〇年にドイツ占領軍の高級将校として彼女の前に現れ、ナイトの役を進んで引き受けると、それは大恋愛へと発展した。それはシャネルの最後の大恋愛だった〉

 彼女は、ドイツ軍の捕虜となっていた甥のアンドレ・パラスを救い出したいと考えていた。一方、ドイツ側はシャネルの交友関係に目をつけた。当時のフランスの上流階級によくあるように、彼女も若い頃から反ユダヤ主義者だったが、これも好都合だったに違いない。ディンクラーゲと恋愛関係に陥ったことを機に、ナチスは彼女を利用し始めた。

 ドイツ軍情報部の台帳に登録されたエージェント番号「F─7124」。それがシャネルである。コードネームは「ウェストミンスター」。かつて愛し愛された公爵の名だった。スパイとしての自覚がシャネルにどの程度あったかはわからない。しかし彼女は、ディンクラーゲの手引きによって英独単独講和工作の仲介役となった。

 マドリッドの英国大使館を通してウェストミンスター公爵と連絡を取り、チャーチルに講和を持ち掛けるというミッションである。もっともこれは、友人の裏切りがあって失敗する。

 ナチスが敗北した時のシャネルの心情は本書には記されていないが、焦りや葛藤はあっただろう。ただし、それは善悪の価値観や道徳的観念に基づいたものではなく、あくまでもいかにして自分の身を守るか。その一点だったはずだ。もはや頼れる男はいなかった。

 戦後、しばらく隠遁生活を送ったシャネルは70歳を超えていたにもかかわらずファッション界に復帰し、再びその才能を発揮した。一方で、自分の対独協力を知る「生き証人」の沈黙を金で買おうとした。回顧録の出版を考えていた「生き証人」に経済的援助を惜しまなかったのだ。「シャネルの名を出すな」という意味である。

 本書は史料を元に淡々と記述しているが、読み終えて一抹の悲しさを覚える。女はつねに男に愛されたいと願いながら、結局、孤独だった。それもまたシャネルの抱えていた影である。

※SAPIO2012年10月3・10日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

精力的な音楽活動を続けているASKA(時事通信フォト)
ASKAが10年ぶりにNHK「世界的音楽番組」に出演決定 局内では“慎重論”も、制作は「紅白目玉」としてオファー
NEWSポストセブン
2022年、公安部時代の増田美希子氏。(共同)
「警察庁で目を惹く華やかな “えんじ色ワンピ”で執務」増田美希子警視長(47)の知人らが証言する“本当の評判”と“高校時代ハイスペの萌芽”《福井県警本部長に内定》
NEWSポストセブン
ショーンK氏
《信頼関係があったメディアにも全部手のひらを返されて》ショーンKとの一問一答「もっとメディアに出たいと思ったことは一度もない」「僕はサンドバック状態ですから」
NEWSポストセブン
悠仁さまが大学内で撮影された写真や動画が“中国版インスタ”に多数投稿されている事態に(撮影/JMPA)
筑波大学に進学された悠仁さま、構内で撮影された写真や動画が“中国版インスタ”に多数投稿「皇室制度の根幹を揺るがす事態に発展しかねない」の指摘も
女性セブン
奈良公園と観光客が戯れる様子を投稿したショート動画が物議に(TikTokより、現在は削除ずみ)
《シカに目がいかない》奈良公園で女性観光客がしゃがむ姿などをアップ…投稿内容に物議「露出系とは違う」「無断公開では」
NEWSポストセブン
ショーンK氏が千葉県君津市で講演会を開くという(かずさFM公式サイトより)
《ショーンKの現在を直撃》フード付きパーカー姿で向かった雑居ビルには「日焼けサロン」「占い」…本人は「私は愛する人間たちと幸せに生きているだけなんです」
NEWSポストセブン
気になる「継投策」(時事通信フォト)
阪神・藤川球児監督に浮上した“継投ベタ”問題 「守護神出身ゆえの焦り」「“炎の10連投”の成功体験」の弊害を指摘するOBも
週刊ポスト
長女が誕生した大谷と真美子さん(アフロ)
《大谷翔平に長女が誕生》真美子さん「出産目前」に1人で訪れた場所 「ゆったり服」で大谷の白ポルシェに乗って
NEWSポストセブン
九谷焼の窯元「錦山窯」を訪ねられた佳子さま(2025年4月、石川県・小松市。撮影/JMPA)
佳子さまが被災地訪問で見せられた“紀子さま風スーツ”の着こなし 「襟なし×スカート」の淡色セットアップ 
NEWSポストセブン
第一子出産に向け準備を進める真美子さん
【ベビー誕生の大谷翔平・真美子さんに大きな試練】出産後のドジャースは遠征だらけ「真美子さんが孤独を感じ、すれ違いになる懸念」指摘する声
女性セブン
『続・続・最後から二番目の恋』でW主演を務める中井貴一と小泉今日子
なぜ11年ぶり続編『続・続・最後から二番目の恋』は好発進できたのか 小泉今日子と中井貴一、月9ドラマ30年ぶりW主演の“因縁と信頼” 
NEWSポストセブン
同僚に薬物を持ったとして元琉球放送アナウンサーの大坪彩織被告が逮捕された(時事通信フォト/HPより(現在は削除済み)
同僚アナに薬を盛った沖縄の大坪彩織元アナ(24)の“執念深い犯行” 地元メディア関係者が「“ちむひじるぅ(冷たい)”なん じゃないか」と呟いたワケ《傷害罪で起訴》
NEWSポストセブン