昔から「食事はよく噛んで食べたほうがいい」といわれてきたが、最近になって「噛む」ことの重要性が改めてクローズアップされている。とくに注目されるのが脳への影響だ。半年ほど前まで、脳梗塞の後遺症で認知機能が衰えて言葉を発することができず、ほぼ寝たきり状態だった斉藤ナツエさん(78才)は、ガムを噛んでみたところ、最近は喋ることができるようになったという。
こうしたガムを利用した「噛む治療」を行った河原英雄歯科医院(大分県佐伯市)の河原英雄院長が言う。
「食べ物を噛むことのメリットは、消化しやすくすることだけではありません。実は近年、脳にたくさんの刺激を与えることが明らかになってきたんです」
「口」と「脳」。一見、関係ないように思えるが、噛むことで「口」と「脳」の間にさまざまな情報のやりとりがされるのだという。
「まず、食べ物を口の中に入れますね。すると、唇や舌は、それが何かを認識しようと働き始めます。次に、食べ物を噛むために、あご関節や唾液を分泌する唾液腺などたくさんの器官が働きます。そして、どんな味か、硬さはどのくらいかも判断していきます。脳にはこうしてさまざまな情報が送られ、刺激を受けて脳が活性化していくのです」(河原院長)
こうした考えをもとに、河原院長が数年前に発案したのが、高齢者の「ガムトレーニング」だった。「噛む」ことは本来、日常の食事でゆっくりと行うことが理想だ。しかし、現代の食生活は、よく噛まなくても食べられる軟らかいメニューが増え、咀嚼回数は戦前の半分以下にまで減った。河原院長が見てきた患者のなかには、噛む力の衰えが原因で生活意欲を失ったと考えられるケースも少なくなかった。そこでガムの出番となる。
「ちょうど3年ほど前に、市販のガムより2倍硬い歯科用ガムが開発されたんです。このガムは噛んでも軟らかくならず、入れ歯にくっつきにくいという特徴がありました」(河原院長)
これはライオンが全国の歯科医院で販売している『デイアップオーラルガム〈かむトレーニング〉』という硬性ガム。実は、子供が正しく噛むトレーニングをするための商品だったのだが、河原院長はお年寄りのガムトレーニングにも応用できると考えたのだ。
“ガムを噛むと脳が活性化する”──このことを示す実験データがあったことも、河原院長の背中を後押しした。
明治大学理工学部の小野弓絵准教授らのグループは、20~70代の男女に協力してもらい、約30秒間、市販のガムを噛んでいる時の脳内の働きを調べる実験を行った。この結果について、小野准教授が解説する。
「被験者のかたの認知機能や記憶にかかわる前頭前野が、ガムを噛む以前より活発に活動していることがわかりました。それも、高齢者になればなるほど顕著だったのです」
さらに、2分間ガムを噛んだ人と噛まなかった人に分けて、風景写真の間違いを探す認知能力テストを行った。その結果、高齢者ではガムを噛んだ人の正答率が、噛んでいない人より高くなったという。脳機能回復に大きく貢献する咀嚼は“脳のジョギング”だと小野准教授は言う。
「年をとればとるほど、目や耳の機能が低下して脳に伝わる情報が減っていくうえ、家族や知人との会話も少なくなる。脳は使わないとどんどん衰えていきます。噛むことで意識的に脳に刺激を与えることは、健康のために毎日ジョギングするのと同じぐらい重要と考えられます」
※女性セブン2012年10月18日号