銅ぶきのドームをいただいた、全長335mに及ぶ赤煉瓦造りの3階建ての建物。10月1日、東京駅丸の内駅舎が1914(大正3)年の建築当時そのままに復原され、グランドオープンした。
東京駅の“顔”として定着していた2階建ての丸の内駅舎に危機が訪れたのは、バブル経済前夜の1980年代後半のこと。スクラップ・アンド・ビルドで、何かにつけ新しいものに価値があるとされた時代だった。
国鉄の巨額赤字が大きな問題になっていたこともあり、古びた2階建ての駅舎が「無用の長物」としてやり玉に上がったのだ。
1986年から1992年まで第17代東京駅長を務めた木下秀彰さん(79才)が言う。
「当時、国鉄は37兆円という赤字を背負っていて、親方日の丸でサービスが悪いなど、世論やマスコミから袋叩きにあっていました。そこに東京駅の駅舎をつぶして70階建ての商業ビルを建てるという話が国鉄内で持ち上がったんです。高層ビルの収益を国鉄の財政再建に当てる計画で、ビルの模型までできていました。私は歴史ある駅舎を壊すことには反対でしたが、それには『赤煉瓦の建物だけ明治村に持っていけばいい』という反論さえありました」
国鉄改革のグランドデザインを担い、分割・民営化の立役者の1人となった元JR東日本社長の松田昌士さん(76才)もこう証言する。
「東京駅を建て直そうという計画が持ち上がったのは、国鉄時代の最後の何年か前から。高層ビル建築を支持する再開発派が幹部の7割を占め、私のような建設当時の東京駅への復原を主張する人間はごく一部。他にも戦災の面影を残す当時の形のままを残そうとする保存派もいて、決めきれないでいたんです」
そうした最中、国鉄の巨大債務問題が火を噴いていく。東京駅の再開発計画は棚上げされ、国鉄改革が急務となり、松田さんが中心となって分割・民営化を推し進めていくことになる。
「JR東日本の誕生で、国鉄時代に大勢を占めた再開発派との形勢は逆転しました。こちらが主導権を握り、1988年には、国会に呼ばれた際に、私がそこで『完全復原したい』と発表したんです。当時、運輸大臣だった石原慎太郎さんとは2人でその話をしていて、石原さんも『復原しよう』と賛成してくれました」
東京駅の再開発問題はマスコミでも大きく取り上げられ、作家の三浦朱門さんなどが「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」を結成。署名活動で十数万人分の署名を集めるなど、駅舎の保存を求める声が大きくなっていたことも松田さんの決断を後押しした。木下さんもこう振り返る。
「会の人たちがわざわざ駅長室まで来てくれて、『なんとしても赤煉瓦を守りたい』という決意を伝えてくれた時は、言葉が出ないくらい感激しました」(木下さん)
※女性セブン2012年10月18日号