「世の中は、電気の時世になった」
そう嘆きながら、石を投げてはランプを次々と割っていくランプ屋の哀愁を描いたのは童話作家・新美南吉だ。明治維新の開国によって西洋から輸入された石油ランプは白熱電球に取って代わられた。その背景には電気の一般普及があった。
では時代変わって、この度の白熱電球生産終了が意味するものは何だろうか。
表向きは東日本大震災後の節電要請である。LED電球の省エネ効果は高く、白熱電球の2割以下の消費電力で寿命も約40倍。価格こそ高いが、参入メーカーも相次いでおり、価格競争も進んでいる。LED電球への切り替えは、いわば時代の要請だった。1936年以来白熱電球を製造し続けてきたパナソニックも10月末に生産を終了させる。だがパナソニック関係者は、「我が社にとって簡単な決断ではなかった」という。
実は電球の切り替え要請は、震災前の2007年から呼びかけられていた。パナソニック(※2008年までの社名は松下電器)とシェア争いをしてきた東芝や三菱電機は生産を既に終了させている。
「白熱電球はパナソニックにとって単なる一商品ではない。創業者・松下幸之助の志を体現する商品なのです。幸之助イズムを絶やさないためにも、生産を続けたかった」(同社関係者)
話は1933年に遡る。同社は創業15年目。二股ソケットなどのヒット商品を世に送り出していたものの、勢いのあるベンチャー企業の一つに過ぎなかった。そんな折に競合他社のひしめく白熱電球市場に参入したことが、躍進のきっかけとなった。松下幸之助が思案したのは価格設定についてだった。経済ジャーナリスト・片山修氏の解説。
「当時の電球には品質のレベルで一流から四流まであった。一流は東芝のマツダランプで定価が35銭。そして、二流25銭、三流15銭、四流10銭。松下幸之助は迷ったあげく、35銭で販売することを決めたんです」
周囲からは反発を受けた。問屋衆から松下電器の商品の機能性を鑑みて提示されたのは25銭。が、松下幸之助は力強く訴えた。
「松下電器を育ててやろうという気があるならやはり35銭で売ってほしい。売ってやるという人がいなければメーカーは育ちません」
再び片山氏が語った。
「松下幸之助は1927年に『ナショナル』ブランドを採用するなど早くからブランド戦略に取り組んでいた。ブランドを安売りしたくなかったんでしょう。長期的にみればブランドの“信用”が価格を上回ることを自覚していた」
必死の懇願は問屋衆を動かした。そして、その恩を松下幸之助は忘れなかった。
翌1934年。四国、近畿地方に、観測史上最大の「室戸台風」が来襲した。死者・行方不明者3036人を出した台風は、同社にも直撃した。
だが損害を被った工場を視察した松下幸之助がかけた言葉は、「こけたら立ちなはれ」。落ち込む暇もなく部下に指示を出した。
「きみたちも大変なところやが、問屋さん、販売店さんもこの暴風雨下、無事であったとは思わへん。いずれもうちと行動を供にして頑張ってる人たちや。お見舞い金を届けようやないか」
自分の会社の復旧見込みすら定かではない段階で、取引先のことに思いを寄せたのである。片山氏がいう。
「商品の発想力や機能性は他社に先んじられることになっても、販売側との信頼関係だけはどの社より強固だった。製販一体体制による二人三脚こそが“販売の松下”と称される同社の強みになっていきます」
※週刊ポスト2012年10月19日号