日本では実に25年ぶり、2人目となるノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の山中伸弥教授は、ユーモラスな人柄も手伝って、メディアに引っぱりだことなっている。
1962年に東大阪市の町工場で生まれた山中教授は、中学・高校時代は柔道に明け暮れた。神戸大学医学部に進学したが、勉強よりもラグビーに熱中していたという。スポーツ少年でありながらも、足の指や鼻などを10回以上骨折した経験から整形外科医を目指す。
しかし、研修医時代には、20分でやるべき手術が2時間かかることもあり、ついたあだ名は「ジャマ(邪魔)ナカ」。臨床医の夢を諦め、基礎研究の道に方向転換した。中・高の同級生である妻の知佳さんと2人の娘に支えられながら米国留学を経験、奈良先端科学技術大学院大・助教授時代にiPS細胞の開発に成功し、2006年に論文で発表。「ノーベル賞に一番近い日本人」と評されてきた。
そんな山中教授のノーベル賞までの道のりは決して平坦なものではなかった。とりわけ、研究資金の面では苦労が多かったようだ。
「研究室の備品を買う際にもしっかりと見積もりをとるなど、研究以外にも気を遣われていて、ムダ遣いを一切せず、少しでも研究費に回せるように節約をされていました」
こう明かすのは、2000年から3年間、奈良先端科学技術大学院大時代の山中教授の助手を務めた、鹿児島大学大学院医歯学総合研究科の三井薫講師だ。
趣味のランニングを生かし、マラソン完走を約束して寄附を募ることもあった。今年3月に行なわれた京都マラソンでは、約1000万円を集めた。
「研究費で苦労しているような素振りを見せない方でしたが、ごくたまにポロッと『研究費が厳しい』と口にするぐらいはあったように思います」(三井講師)
研究費についての苦労は、2009年の政権交代と切り離せない問題である。2008年の麻生政権で、総額2700億円の研究費を30人の研究者に配分する「最先端研究開発支援プログラム」が策定されたが、2009年の政権交代後に1000億円に減額されたのだ。当時のインタビューで山中教授は、
「iPS研究は国際競争を勝ち抜く重要な時期。せめて10年、資金繰りと雇用を心配せず、研究に没頭させてほしい。成果が出なければ10年後にクビにしてもらってもいい」(2010年1月3日付朝日新聞)と自らの覚悟を吐露している。
山中教授と同様に、30人のうちの1人に選ばれていた北海道大学大学院医学研究科の白土博樹教授も、
「減額幅が3分の1と、あまりにも大きかったので、研究そのものを諦めようかという状況にもなりました」というほど、研究者の落胆は大きかったようだ。
さらに、民主党政権最大の目玉である「事業仕分け」では、研究費の資金配分をする「科学技術振興機構」も俎上に載せられた。
ノーベル賞受賞後には、山中教授の研究室には寄附の申し入れが殺到し、すでに500万円を超えたという。
一方で、田中真紀子・文科相は「資金で苦労しているとうかがっているので、クリアできるよう応援できるといい」と声援を送り、今後10年間で約300億円の助成方針を固めた。しかし、研究費を削ってきたのは他ならぬ民主党政権。山中教授も「何を今さら」と鼻白む思いだろう。
山中教授は、受賞後の会見で、「日の丸の支援がなかったら受賞できなかった」とコメントしたが、「日の丸」とは政府のことではなく、寄附をしてくれた国民への感謝の気持ちだったのかもしれない。
※週刊ポスト2012年10月26日号