【書評】『バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本』(安田寛)/音楽之友社/2520円
【評者】福田ますみ(フリーライター)
高度経済成長期、ピアノは、日本の家庭に爆発的に普及した。狭い畳敷きの部屋にでんと置かれたアップライト型のピアノは、庶民が手に入れた豊かさの象徴だったのである。
そして、当時の初心者向けピアノ教則本といえば、バイエルに決まっていた。長く使いこまれて日本人にすっかりなじんだ教則本。それはもはや、日本文化そのものだった。ところが、1990年代、バイエルは消える。
「古くさいだけで特に優れているわけでもないピアノ教則本」と槍玉に挙げられたのが理由のようだ。
そこでにわかに疑問がわく。そもそもバイエルとは何だったのか。日本で100年以上使われたからには理由があるのではないか。ほんとうに古くさいだけなのか?
実は作者のフェルディナント・バイエルについても謎だらけだ。彼の伝記は一冊もなく、わかっているのは、生没年月日と生誕地、没した場所、ドイツのマインツ市の出版社が教則本を出版していたことくらいである。
そこで著者は、ドイツの生誕地、居住地、アメリカにまで足を延ばしてバイエルの謎を追う。それは、ミステリーの謎解きのようにスリリングに展開する。
著者は、アメリカのニューイングランド音楽院の教授によって、明治時代に日本にバイエル教則本が入り、その後、絶対音感教育など日本独特の教授法の進化に伴って改良されてきた事実をつきとめる。
だが、バイエル自身についての調査は難航し、著者は、バイエルは実在しない人物ではないかとまで疑う。
だが、ある偶然から、マインツ市の図書館に保存されていたバイエルの戸籍簿を発見。そこから教会の洗礼記録などを次々に辿り、ようやくバイエルの実在が証拠づけられた。
それによるとバイエルは、オルガニストだった母方の祖父と、やはりオルガンの名手だった母から音楽の才能を受け継ぎ、マインツで音楽教師、作曲家として働いたという。
著者は最後に、バイエルが1863年に亡くなった時の訃報記事を発見する。そこには、「バイエルのピアノ作品の長所は、分かりやすさ、手の美しいこなしと良い運指をもたらす作曲法によって、さらにはその優雅さによって際立っていることにある。そのためとりわけレッスンと演奏に正にふさわしいものである」とあった。
これこそ、日本人が百年以上、バイエルを使い続けた理由だったのではないか。
※女性セブン2012年11月1日号