iPS細胞の作製でノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥・京都大学教授(50才)だが、研修医時代に臨床医としての限界を感じ、1989年に基礎医学へと進路変更したという経緯があった。すでに、結婚し、長女も誕生していた状況で、週末に病院勤務のアルバイトをしながら、平日に実験に明け暮れるという生活は、かなり厳しいものだった。
そして、1991年には次女が誕生。知佳さんは、実家の両親、山中さんの母親の力も借りながら、山中さんの研究を支え続けた。山中さんは博士号を取得すると、今度は海外留学を決意する。カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)と連携しているグラッドストーン研究所での採用が決定し、1993年4月、家族を連れてアメリカに渡った。
「知佳さんは当時、勤務医でしたが、病院をやめて山中さんについていくことに迷いはないようでした。山中さんに負担をかけないようにするためもあるんでしょうが、アメリカでの生活が楽しみだと言っていたのを覚えています」(ふたりの友人)
渡米後は<ほかの研究者の三倍は働いたと思います>と自伝『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社)で語るほど、研究に没頭した山中さん。しかし、大学院生時代、昼は研究、夜や週末は仕事で、家族と共に過ごす時間がなかった山中さんにとって、アメリカでの生活は貴重なものだった。受賞会見でも、こう述べていた。
「アメリカでは、研究しているか家にいるかで、ほかのことは全然していません。研究以外の時間がずいぶんできて、子供の成長をともにすぐ横で見ることができました。子育てに携わることができたということが、研究でいろんなことがあっても子供の笑顔を見ることが私の支えでした」
それは知佳さんにとっても嬉しい誤算だったのではないだろうか。日本では、家にも帰って来なかった夫が、子育てに参画、家事も手伝うようになったのだから。トイレ掃除や風呂掃除、床の拭き掃除が山中さんの担当になったのもこの頃のようだ。米国時代の恩師である、グラッドストーン研究所のロバート・マーレイ名誉所長は、山中夫妻についてこう話す。
「山中さんは知佳さんと2人の娘さんと4人で研究所に挨拶に来ました。知佳さんはご自身も勤務医だったが、夫の研究を側面支援するために一緒に来られた。チャーミングで聡明で、2人のお子さんも渡米と同時に現地の学校に通っていました。とても頭がよさそうなお子さんでしたね」
米国での生活には、知佳さんの両親からの援助もあった。山中さんは先の会見でこう感謝していた。
「私の義理の父は医師でして、若い頃、私を留学させるために支えてくれました。しかし、今年早くに亡くなった。義理の父に報告できなかったことは残念ですが、25年以上前に亡くなった本当の父とともに、天国で喜んでくれていると思います」
※女性セブン2012年11月8日号