10月25日に行なわれたドラフト会議の主役は、花巻東高校の160キロ右腕・大谷翔平に違いなかった。メジャーリーグへの挑戦を表明したばかりの大谷を、北海道日本ハムファイターズが強行指名したのだ。当日夕刻、花巻東の室内練習場で報道陣に対応した大谷は、困惑の表情を隠せなかった。18歳の「決断」やいかに。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。
* * *
まさか大谷の決断が揺らぐことはあるまい。1か月ほど前、私が彼にインタビューした際には、言葉の節々に「メジャーが本線」であることが感じられた。
「松坂大輔選手や田澤純一選手のように、一流選手がアメリカに行く姿を見たら、野球選手は誰でもそこでやってみたいと思う」
松坂の次に新日本石油ENEOSから日本のドラフトを拒否して海を渡った田澤(現ボストンレッドソックス)の名を挙げるあたり、メジャーへの強い関心がうかがい知れる。
それでも当初15日に予定していた会見を21日まで遅らせたのは、国内の道を勧める両親や学校関係者への説得に、相応の時間が必要だったからだ。進路表明会見の3日前、私は大谷の両親に話を聞いていた。父・徹の証言。
「最終的には本人に任せようと思っていましたが、最初は私も国内を勧めていたんです。国内であれば言葉や文化の違いなどはないし、それだけ野球に集中できるわけですから」
プロ志願届を9月19日に日本高校野球連盟に提出してからというもの、大谷は毎週末に花巻東の寮から岩手県奥州市の自宅に帰宅し家族会議を行なっていた。
「私たちを前にすると、翔平は何もしゃべらないんです。私もしびれを切らして、“いい加減にしろ”と怒鳴ったこともありました。本人のメジャーへの思いが強かったのは確かです。しかし、いざ進路表明の当日となって、『やっぱり国内にする』と言い出しかねないとも思っていました」
もともと大谷は口数の多い18歳ではないが、母の加代子が寮まで送迎する車中ではより無口となった。
「練習にもあまり集中できていなかったようです。(高校の先輩の)雄星君(菊池雄星・現埼玉西武ライオンズ)もこの時期に練習ができず、ケガをしてしまったという話を聞いたことがありますから、親としては心配してしまいます」
その時点で家族の答えは固まっていた。残すは学校関係者の説得だった。
現行のルールでは、日本の高校球児がドラフトを経ずにアメリカの球団と契約した場合、契約終了から3年間は日本のドラフト指名を凍結するというドラフト実行委員会の規約がある。そのリスクを負うよりも、日本球団に在籍して実績を残し、その後ポスティングシステムやFAで夢を追っても遅くないのではないか。それが同校監督である佐々木洋らの意見だった。
決意表明の日、大谷と両親、そして佐々木を交えて最後の進路相談は行なわれた。
そして佐々木も最終的には大谷の初志貫徹を後押しし、大谷のメジャー行き表明後にはこう話した。
「雄星の時も最後は本人の意志を尊重しましたが、私自身が自分の身を守るために国内を勧めていた面がありました。私も日本の野球界に身を置く身ですから……。今回は大谷の気持ちを何より大事にしたかった」
大谷は周囲の反対を押し切る形で夢を優先させた。苦渋の決断を、いくら憧れるダルビッシュ有が在籍した日ハムに指名されたからといって、いまさら翻意するはずがない。
※週刊ポスト2012年11月9日号