10月24日、野村克也氏は新著『オレとO・N』(小学館)を上梓した。長嶋茂雄と王貞治、両氏との因縁や名勝負を軸に、プロ野球がたどってきた歴史をひもときながら、独自の野球観を語るファン必読の好著である。「長嶋茂雄氏の攻略法は最後まで分からなかった」と語る野村氏。ではもう1人のライバル・王貞治氏の攻略法は?
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私は、打者を考える時(すべての打者は変化球への対応をテーマとしている)、大きく4タイプに分類する。ストレートを待ちながら変化球に対応するのがA型。内か外かコースを決めて対応するB型、C型はレフト、ライトと打つ方向を決めて備え、球種にヤマを張るのがD型だ。
分類では王も長嶋と同様、A型だ。大きく右足を上げる一本足打法ではいわれているほどインコースをうまく打てない。だから内角のボールを内側にスライドさせ食い込ませれば、ストレート待ちの王は必ず振ってきてファウルになる。私は捕手として、そうやって王を追い込むことができた。
ところが、そのファウルが弾丸ライナーだったりすると、インコースを攻めるのがどうしても怖くなる。それでついアウトコースだけの配球をしてしまうのだが、実はそこが、王が一番好きなところ(外角の甘め)なのだ。セのバッテリーは、大体このパターンでやられていた。
王も長嶋に負けず劣らず天才である。だが、私なら王を抑えることができると確信していたし、実際オールスターで対戦したときはほぼ完璧に封じ込めた。私は、長嶋については不思議とライバルと思っていなかったが、王に対しては強烈な対抗心を抱いていた。
私は王のおかげで、生涯記録がことごとく2位に甘んじている。私が更新した記録を、次々に王が塗り替えていってしまったからだ。本塁打だけは「一番」であり続けていたが、1974年、通算600号達成でこれもついに抜かれてしまった。翌年5月、後楽園球場で行なわれた日本ハム戦で、私は600号を達成。その記者会見でのセリフが、その後の私の代名詞になった。
「長嶋や王が太陽の下で咲くひまわり。僕は人の見ていないところでひっそりと咲く月見草みたいなもの。そういう花があってもいいと思ってきた」
しかしこの練りに練った談話でさえ、スポーツ紙の一面を飾ることはなかった。翌日の各紙の一面が伝えていたのは、「長嶋新監督率いる巨人が球団史上初の二けた借金を背負った」ことだった。ONと同じ時代に生きた私は、この意味ではつくづく不幸だったと思う。
※週刊ポスト2012年11月9日号