この十月で八十歳になった三浦雄一郎さんが、来年五月、三度目のエベレスト登頂を目指す。
二度の手術をへてよくなったとはいえ、三浦さんには持病の不整脈がある。二〇〇九年には札幌のスキー場で仮設コースから道路に転落、左大腿骨付根と骨盤四か所を骨折。「運がよければ歩けるようになる」と医者から言われるひどいけがだった。
マネージャーでもある長女恵美里さんは当初、父の健康を考え、八十歳での登頂計画に反対だったという。
「家族会議を開いて、決定に従ってもらうなんて言い出して。本当に会議を開いて『ダメ』って言われたら、書き置きを残して家出しようと思ったんだけど」(三浦さん)
周りは、いずれあきらめるのではと思っていたが、三浦さんの強い気持ちは変わらなかった。
「骨折したと聞いて病院にかけつけたとき、父は下半身がまったく動かない状態でした。それでも氷点下四〇度のエベレストに行くことを考えてチタンを埋め込む手術はしたくないと言う。どうしても登るという気持ちを捨てずに懸命にリハビリに取り組む姿を見て、この人から生きる力であるエベレストを取り上げられないなと思いました」(恵美里さん)
日ごろのトレーニングとリハビリのかいあって、予定より二か月以上も早く退院できた。骨も自然につき、けがをする前より体の柔軟性と筋力はアップしたというから驚く。
三浦さんの冒険を家族がサポートする。準備登山を含めて約二億円かかる費用の大半は、恵美里さんが三浦さんとともに企業を回って寄付を集めた。長男雄大さんはベースキャンプで通信システムを担当、次男豪太さんは山頂まで父に同行する予定だ。
だれもやっていないことをやりたい、そう思い続けてきた。
「あいつバカじゃないか、そんなことやって何になるんだってずっと言われてきました。スキー界、山岳界の奇人変人なんですね、ぼくは」
皮肉なことに、一度切りひらいた道は後追いが容易になる。七十五歳でのエベレスト登頂記録は、七十六歳のネパール人男性が登頂を申請したことで破られた。
もし彼が現れなかったら、八十歳での挑戦はなかったのだろうか。
「それは関係ないです。もし八十歳で登ったら、八十一歳の人が出てくるかもしれないですし」
あくまで自分への挑戦ということか。いま、酒よりゴルフより山が一番楽しい──そう言い切る。
三浦さんの東京の事務所には低酸素室があって、走ったり、簡単な岩登りをしたりできる。部屋の中に競技用のマットがあった。用途を聞いたら、出発が近づくと高地に体を慣らしておくため、この部屋で眠るそうだ。
──低酸素室で布団もなしに眠ってつらくないですか。
「寝たと思ったら一時間ぐらいで苦しくて目が覚めます。でも、年をとると夜中に三回か四回おしっこに起きますからそれと同じだと思えばいい。アスリートがトレーニングして苦しくないってことはないですからね」。飄々と答えが返ってきた。
前回同様、登攀チームのリーダーをつとめる登山家でカメラマンの村口徳行さんは今回、三浦さんに同行するかどうかかなり迷ったという。「八十歳ですから。それはエベレストなんて登らないほうがいいですよ」
今冬の地震と温暖化の影響でか、雪が落ちて岩肌がむき出しになっている難所が多い。そう聞かされても三浦さんはあきらめず、黙々と岩登りのトレーニングに励む。
「年齢の限界をどこまで超えられるか試してみたいっていう好奇心が大きいです。自分の可能性をもうひとつ越えていきたい」
登山中は三浦さんの心電図をパソコンでモニターし、国際山岳医の資格をもつ心臓外科医も同行するが、最終的な進退は三浦さん自身が判断する。
「限界までやって、もしその限界が頂上だったら、こんなにうれしいことはないです」
冒険に命をかけるが、最後の最後で命綱を手放さないふしぎな強さがある人だ。エベレストのスキー滑降で転倒し氷壁を滑落したときも、南極で雪崩にまきこまれたときも、紙一重のところで救われてきた。
「自分の力じゃない。あの世へ行きかけたのを、神様か仏様かが、あんたもう一回人間やりなさいって拾ってくれた、そんな感じです」
十月十七日、準備登山のためヒマラヤに旅立った。山を歩きながら落語をよく聞くそうで、好きなのは立川談志だという。
取材・文■佐久間文子
撮影■二石友希
※週刊ポスト2012年11月9日号