「私は自分の『最期』を、最後の仕事としてプロデュースしようとしていた」
誰にも訪れる最期の時。だが、遺された者は悲しみに浸る余裕もなく、葬儀や墓の問題、遺産整理などに追われることも多い。その点、10月2日に41歳の若さで亡くなった金子哲雄さんの「最期」は見事というほかはない。
病いと闘いながら、流通ジャーナリストとして自分の葬儀を自分でプロデュースし、会葬礼状までも自分でしたためていた金子さん。彼が死の直前まで最後の力を振り絞って書き上げた『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(小学館刊)には、我々も学ぶべき「命の始末」のつけ方がつまっている。
金子さんが、がんに似た悪性腫瘍「肺カルチノイド」と診断されたのは、2011年6月のことだった。
「いつ死んでもおかしくない」と余命宣告されてからの1年3か月あまり。献身的に看護してくれている妻・稚子さん(45)に死後まで迷惑をかけたくない――そんな思いから、金子さんの「死の準備」は始まったのである。
【遺産整理】
金子さんがまず最初にとりかかったのは、遺産整理だった。旧友の弁護士と相談し、公的に効力のある遺言「公正証書遺言」を残すことにした。手記で金子さんは、
「こんなに早く死を迎えるとは思っていなかったので、私は死亡保険に入っていなかった。妻は、私の大事なパートナーであり、同志だった。自分がここまで成功できたのは、妻の力によるところが大きい。大金を残せるわけではないが、いくばくかの財産をスムーズに妻に相続してほしかった」と。
病気の悪化で外出が困難になっていたため、弁護士とメールで頻繁にやりとりして遺書の文案を作成。遺書の作成に必要な公証人と証人2人の立ち会いも、弁護士に手配してもらった。
公証人の出張料金は9万6000円。初めは「高い」とも思ったが、法的にいい加減な遺言を残して、のちのち揉めないようにするためだと考えれば高くないと思い、決めたという。
【墓地の選択】
金子さんは自分の遺骨をどこに納めるかも生前に決めている。
「墓地に数百万円かけるのは、腑に落ちない。残された人間が手厚く葬るならまだしも、生前にバカ高い、自分のための墓を用意するのは避けたかった」
と、金子さんは手記に綴っている。
子供もいないことから、後々妻とふたり一緒に眠ることができ、永代供養をしてくれる納骨堂を検討。そして「終の住処は都会の中心にしたかった」という自らの希望から、最終的に、東京タワーのすぐ足下にある心光院の納骨堂に決めた。
お参りの際の目印としてわかりやすく、また「東京タワーを見るたびに思い出してくれたらうれしい」という想いを込めての選択が金子さんらしい。
※週刊ポスト2012年11月30日号