弱肉強食のプロ野球を象徴するのが12球団合同トライアウト(11月9日)だ。過去の実績は一切考慮されず、自らの一球、一振りだけが評価される。その舞台に臨んだ男たちがいる一方で、熟慮の末、挑まなかった男たちもいる。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、潔く球界を去った者のドラマを追う。
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北海道日本ハムファイターズが44年ぶりの日本一になった2006年に、当時のドラフトで採用されていた希望枠で入団したのが宮本賢(28)だった。
在籍6年で彼の成績は0勝0敗。早稲田大で通算23勝の左腕も、北の大地に足跡は残せなかった。
今年5月に結婚し、10月9日には子宝にも恵まれた。そんな幸せの絶頂期に戦力外通告を受けた。
居場所を失って思い出したのは、入団直後に鎌ヶ谷の寮のミーティングルームで大渕隆スカウト(現スカウトディレクター)から聞いた言葉だった。
「新人指導のような講義で『入団した瞬間から君たちの一軍への扉は閉まりつつある』と聞かされました。つまり、入団した時が一番のチャンスで、その後はどんどん新人が入ってきてより厳しい生存競争が行われると。その言葉の意味を実感しました」
悔やまれるのは初めて一軍登板を果たした2年目(2008年)、5月17日のソフトバンク戦だった。9回裏1死二塁のピンチで宮本はマウンドに上がった。
「それまで先発が崩れた時のロングリリーフが役割で、登板機会が少なかった。自分にとって、評価を上げる絶好のチャンスでした」
打席に入ったのは、川崎宗則(現在、マリナーズからFA)だった。3球目に宮本が得意とするスライダーを投じたところ、川崎は鋭くはじき返し、打球はセンターの頭上を越えた。サヨナラで試合は決着する。
「もしあのピンチを抑えられていたら、自分の人生は変わっていたと思う。自分の評価を左右する試合で、結果を残せる選手が、この世界で長く生きていける。そういう勝負強さが自分にはなかった」
2008年は9試合、2009年は12試合に登板。2010年シーズンをわずか1試合の登板で終えると、5年目のシーズンを前に一念発起する。オーバーハンドからサイドスローへフォームを変更したのだ。
「130キロ台後半しか投げられない自分が、140キロ台後半を投げる投手たちと張り合っても仕方ない。先発を諦めました。自分は左投手ですから、対左打者のワンポイントでも使ってもらえるように、左ヒジを下げて、左打者のアウトローに角度のついたボールが投げられれば勝負できる……そう思ったんですけどね」
苦肉の策も、奏功しなかった。昨年、今年と一軍登板はなかった。その間に大学の後輩である斎藤佑樹が入団し、昨年は6勝、今年は開幕投手を務めた。
「斎藤こそ、チャンスをものにできる選手。1年目から活躍して、今年の開幕戦でも勝った。今は結果が出ていないですけど、プロ野球の世界で生き残っていくためには実力にプラスして華がなければいけない。それは努力でどうにかなるものではなく持って生まれたものでしかない。斎藤はそれを“持っている”」
戦力外を通告された時、宮本は球団スタッフとして残る道を提示された。
「これまで6年間、大きなケガなくやってきたのに結果が残せなかった。自分の実力は理解しているつもりです。選手として貢献できなかった分、次は裏方として選手が野球に集中できる環境を作って貢献したい」
スカウトやスコアラーといった役割か、広報などの業務を担当するかは決まっていないという。現役引退を決めたばかりの宮本は、できるだけグラウンドに近い用具係を希望する。踏ん切りはついていても、そこにちょっとした現役への未練を感じずにはいられない。
※週刊ポスト2012年11月30日号