11月10日、心不全のため入院先の都内の病院で亡くなった森光子さん(享年92)。14日には密葬が行われ、祭壇には胡蝶蘭やカトレアなどが飾られ、親族や事務所スタッフら数名のみで見送った。棺には森さんの代名詞でもある『放浪記』の台本が納められたという。
森さんは1920年(大正9年)5月9日、京都で生まれた。しかし、その生いたちは、かなり複雑だ。
母の艶(つや)さんは三味線好きが高じて芸妓になり、森さんの伯父とともに割烹旅館『國の家』を営んでいた。父は当時、京都帝国大学の学生で紡績工場の跡取り息子だった。結婚は父側親族の反対もあってかなわず、生まれた森さんの認知もしてもらえなかった。そのため、森さんは艶さんの下、女手ひとつで育てられた。森さんは著書『人生はロングラン 私の履歴書』(日本経済新聞出版社)で父についてこう語っている。
<父は一ヵ月か二ヵ月に一回くらいうちに来て、膝の上でだっこしてくれたような覚えもあるにはあるけれど、何を話したか、全然覚えていません。ご飯を食べると、いつもすぐに帰っていきました>
森さんには長兄、次兄、妹と3人のきょうだいがいたが、長兄と次兄は若くして亡くなっており、裏に鴨川が流れる風情のある旅館で、妹とともに母の慈愛を一身に受けて育った。
旅館を切り盛りする母は、いつも忙しかったが、仕事の合間をぬって幼い森さんと百人一首をして遊んでくれたという。次第に森さんは暗記するだけでなく、下の句を読んで上の句を取れるほど上達した。母からほめられることが何より嬉しかったという。
艶さんは長女である森さんに旅館を継がせたいと考え、6才のころから日本舞踊を習わせた。当時は子供が家業を継ぐことが当たり前の時代。しかし、森さんは旅館の常連客だった阪東妻三郎の颯爽とした姿に魅せられ、芸能界に強い憧れを抱くようになっていく。
とくに好きなのが歌劇だった。松竹少女歌劇団の水の江瀧子や宝塚少女歌劇団の小夜福子に夢中になり、時間があれば歌や踊りに興じた。森さんは前出の著書で当時の心境をこう綴っている。
<女優になりたいなんて言い出さなかったら私は祇園で舞妓になり、いずれは母の跡を継いで女将になっていたでしょう。でも、それは嫌で嫌で仕方なかったのです>
ある日、華やかな世界に憧れる自分の思いをこらえ切れず、母に「宝塚に行きたい」と訴えると、少しの沈黙の後、母は静かにこう答えたという。
「そら、ええな」
反対されるのを承知で思いを告げたのだが、返ってきたのは思いがけぬ言葉だった。
※女性セブン2012年12月13日号