12月5日午前2時33分、歌舞伎俳優として絶大な人気を誇った中村勘三郎が57歳で亡くなった。「ならない時はならない」とはいえ、あまりにも早すぎる死だった。
中村勘三郎(本名・波野哲明)は、1955年5月、十七代・勘三郎の長男として生まれた。中村屋は江戸時代の初期に、江戸歌舞伎座の祖となる猿若座を幕府の公許を得て立ち上げた猿若勘三郎にさかのぼる家系。そして「中村勘三郎」といえば、数ある大名跡の中でも最も古い歴史と格式を誇る名前である。
49歳でこの名を襲名した勘三郎は、まさに歌舞伎界の中心的存在だったが、その人柄は気さくで、親しみやすいと評判だった。
「勘三郎さんは『みんな誰も平等なんだ』といって、役者にしても、一般の人にしても、関係者にしても、誰にも分け隔てなく接して、何を聞いてもいつも笑顔で答えてくれるような人でした」(歌舞伎関係者)
交遊関係は幅広く、お酒好きで有名。自分から「帰ろう」とは絶対にいわず、陽気に飲み明かす。『新しい勘三郎――楽屋の顔』(文藝春秋刊)などの著書があるノンフィクション作家の関容子氏も、何度も酒席をともにしたという。
「梯子しながら夜明けまでとめどなく飲む。突然、銀座の路地裏で汚いバーを見つけて、『行ってみたら面白かった』なんていう冒険心もありました。心優しい人で、後輩や弟子にお酒を奢って、話を聞いてあげるのが好き。一方、目上の人や歌舞伎のご贔屓さんにご馳走になるのは嫌いでしたね」
若い頃はシャンパン、特にドンペリが好きで朝まで飲み、そのまま寝ないで舞台に向かうこともしょっちゅうあったが、舞台に影響が出たことは一度もなかったという。
前出・関氏が続ける。
「飲みながら(市川)海老蔵さんに『鏡獅子を教えてあげる』といったことがあるんです。約束の時間に海老蔵さんが楽屋に行くと、勘三郎さんはびっくりして、『えっ? そんなこといったかなぁ』って。
飲んで寝ちゃって、すっかり忘れていたみたい(笑い)。でも、来ちゃったものは仕方ないから、『じゃあ心得だけ教えよう』って。お酒の席では気持ちが大きくなって、色んな約束をしたんでしょうね、きっと」
そんなおおらかな性格だからか、このような酒にまつわる失敗談というか、ユニークなエピソードは枚挙にいとまがない。
「有名な話なんですが、皇居へ食事に招かれた時のこと。大感激した勘三郎さんは、嬉しさのあまりワインを飲み過ぎて、皇太子殿下とご一緒だった雅子妃に対して『奥さん、奥さん』と呼んでしまった。ハッと気づいた時は時すでに遅し。
冷や汗が出たそうです。その時隣にいた京舞の井上八千代さんが、『この人はいつもこの通りなんです』ってフォローしてくれて、その場は大爆笑になったそうです」(前出・歌舞伎関係者)
2009年10月の長男・勘九郎(当時は勘太郎)の結婚披露宴でも、喜びのあまりまたまた飲み過ぎ、招待客を送り出す時に、大竹しのぶに抱きついてしまうシーンも。一歩間違えれば“大問題”になりそうなことでも、周囲を笑いの渦にしてしまう。そんな誰にも愛される人柄だった。
※週刊ポスト2012年12月21・28日号