ユニフォームを着た投手だが「選手」ではない。支配下登録はされておらず、背番号は3桁。仕事は「打者に打たれること」――。
グラウンドで最も輝くマウンド近くにいながら、どこか哀愁漂う存在、それが「打撃投手」である。しかしその仕事は、チームの浮沈を左右するほどの重要なものであることは、あまり知られていない。
打撃練習は投手と打者の共同作業であり、お互いの呼吸が合わなければいい練習にはならない。その意味で、打撃投手は単なるピッチング・マシンとは決定的に違うのだ。
「試合前の練習なら、打者の調整をするのが最大の目的ですから、打者が気持ちよく試合に臨めるように投げないといけない。一番気を遣う部分です」
こう語るのは、「イチローの恋人」奥村幸治氏だ。
「プロの打者は皆、それぞれの課題を持って打席に立っている。例えばイチローは試合前に生きた球を打つと楽だといっていた。そして、速い球が一番打ちづらいので、遅れないための準備をしておきたいとのことだった。だから僕は、変化球ではなく、速い球だけを投げて調整をしていました」(奥村氏)
奥村氏は2年間、オリックスでイチローを相手に投げた。その間、1シーズン210安打の記録達成に貢献している。実はこの大記録は、奥村氏の助言から生まれたという。
このシーズン、周囲の話題は上がり続けるイチローの「打率」に集中し、“ついに4割打者誕生か”などと騒がれた。ただ打率は上下が激しく、いくらイチローといえども気になりやすい。そこで奥村氏は、イチローが試合でのびのび打てるよう、絶対減らない「安打数」に目をつけた。
イチローは4月に20試合ほどで30本、5月にも30本をクリアしていた。
「だからイチローに、“1日1本のつもりで積み上げていこうよ”と声をかけたんです。すると彼も、“いいですね”といって、それ以降、電光掲示板の打率を見なくなった。ただ僕は大変でした。大記録が近づくにつれ、周囲の期待がわかるから、“これはぶつけられないぞ”とね(笑い)」(奥村氏)
※週刊ポスト2012年12月21・28日号