12月5日午前2時33分、歌舞伎俳優として絶大な人気を誇った中村勘三郎が、急性呼吸窮迫症候群(ARDS)のため57歳で亡くなった。勘三郎が歌舞伎界に残した功績はとてつもなく大きい。
伝統的な『連獅子』や世話物、時代物といった古典のほか、『京鹿子娘道成寺』など代表的な女形も踊れる実力を備え、玄人筋も唸らせる名役者。その一方で、野田秀樹らと組んで斬新な演出を取り入れ、新しい歌舞伎に挑戦し続けた。歌舞伎ファンのすそ野が広がり、現在、歌舞伎が一般のファンにも親しまれるようになったのは、勘三郎がいればこそだった。
1994年には若者の町・渋谷にある劇場『シアターコクーン』での歌舞伎公演「コクーン歌舞伎」を始めた。
「勘三郎さんには、歌舞伎を若い人たちや世界の人に向けて発信するという大きな目標がありました。コクーン歌舞伎の最初の演目である『東海道四谷怪談』では、本当の水を使った池に落ち、泥まみれになって立ち回りを演じたり、代表作の『夏祭浪花鑑』では本物のろうそくを舞台上で灯してリアリティを出すなど、それまでにない斬新な演出を次々にやってのけました」(歌舞伎関係者)
2000年には東京・浅草に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営。「平成中村座」と名付けた。翌年以降も、会場を変えながら、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演を行ない、2004年にはニューヨーク公演まで実現させている。勘三郎は当時、親しい仲間にこういって目を細めていたという。
「役者はやっぱり孤独。誰も助けてくれない。でも舞台に上がっている時は、お客さんや芝居の神様が助けてくれる。その一瞬に、自分の命を燃やせるっていうのが、この中村座にはあるんだよ」
歌舞伎は江戸時代から続く伝統芸能だが、最初はすべての芝居が新作だったはずである。それが年を重ね、演じられ続けるうちに古典と呼ばれるようになった。
「であれば、将来古典となるべき、新しくて良質の歌舞伎を自分で作っていこうと考えたのが勘三郎さんでした。野田秀樹さん、宮藤官九郎さんら、現代演劇の人気作家に書いてもらい、それまでとは違う演じ方をした。確かに『あんなのは歌舞伎じゃない』と批判する評論家がいたことは事実ですが、それも含めて大きな功績だと思います」(前出・歌舞伎関係者)
かつて飲み屋で偶然に出会い、一緒に飲んだことがきっかけで“盟友”となった野田は、勘三郎の訃報に、次のようなコメントを寄せた。
「同じ年の生まれで、歌舞伎の世界と現代劇の違いはありましたが、いつも二人三脚のような気持ちでいました。彼がかならず隣で走ってくれていました。かなしい、さみしい、つらい、ありとあらゆる痛切なる言葉を総動員しても、今の気持ちを表現する言葉が見つかりません」
※週刊ポスト2012年12月21・28日号