野村克也・東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督は、王貞治、長嶋茂雄らと競い、日本球界を隆盛に導いたひとりだ。今や日本人が失ったハングリー精神をもち、忍耐と創意工夫を重ねて苛烈な戦いを経てきた経験を『オレとO・N』(小学館刊)で明かした野村氏が、「競争」とは何か、「ライバル」とは何かを語った。
――現役時代、ライバルの存在が自らの成長を促したと著書で書いた。
野村:私が南海ホークスでプレーしていた現役の頃、球界には最大にして最高のスーパースターが2人いた。OとN、すなわち王貞治と長嶋茂雄だ。
そのONを倒すべく、金田正一、村山実、江夏豊といったライバルチームのエースたちが立ち向かい、数々の名勝負が生まれ、プロ野球は国民的スポーツに育った。私もリーグは違えどもONを強烈にライバル視して奮闘した。日本シリーズでは5度対戦し、オールスターでも真剣勝負を挑んだ。
私には「一流が一流を育てる」という持論がある。一流がいるから倒そうとする。そのため全身全霊を尽くす。結果、勝った方のレベルが上がり、負けた方はさらに努力する。それが見る者を感動させ、プロ野球人気を盛り上げてきた。
――残念なことに、今の日本には一流が少ないと感じる。
野村:たしかに今のように、一流選手がアメリカに流出してしまう状況では、切磋琢磨がなく一流選手が育ちにくい。実際、WBCのためにオールジャパンを結成したとしても、メジャーリーグの選手が抜けると誰が中心選手なのかもわからないチームになってしまう。
だが、成長できないことをすべて「ライバルのいない時代」のせいにすべきではない。最近の若い選手はライバルの意味をはき違えている。向上心を持って、うまくなりたい、上を目指したいと思っているときは、ライバルは存在しないものだ。
ある程度の地位を確立したときに、それを脅かす存在がライバルであって、それまではがむしゃらに突き進むしかない。私がONをライバル視するようになったのは正捕手の座を不動のものとし、チームリーダーとして日本一を目指すようになってからだ。そして、私の前に立ちはだかったのが王だった。
――あなたにとって王はどのような存在だったか。
野村:私は王のおかげで、生涯記録がことごとく歴代2位に甘んじている。私が更新した記録を次々に王が塗り替えていったからだ。本塁打だけは「一番」であり続けていたが、1973年8月8日に通算563本目を放った王についに並ばれ、1974年5月には先に史上初の通算600号を達成されてしまった。
私が600号を達成したのは遅れること1年、1975年5月、後楽園球場で行なわれた日本ハム戦だった。その記者会見でのセリフが、その後の私の代名詞になった。「長嶋や王は太陽の下で咲くひまわり。僕は人の見ていないところでひっそりと咲く月見草みたいなもの。そういう花があってもいいと思ってきた」。
――実力は拮抗していても、あるいは勝っていても、巨人は脚光を浴び、南海は記事にならない。忸怩たる思いがあったのではないか。
野村:その練りに練った月見草の談話でさえ、スポーツ紙の一面を飾ることはなかった(笑)。翌日、各紙が一面で伝えたのは、「長嶋新監督率いる巨人が球団史上初の二けた借金を背負った」ことだった。ONと同じ時代に生きた私は、その意味ではつくづく不幸だったと思う。
ただし、決して腐らなかった。
※SAPIO2013年1月号