ユニフォームを着た投手だが「選手」ではない。支配下登録はされておらず、背番号は3桁。仕事は「打者に打たれること」――。
グラウンドで最も輝くマウンド近くにいながら、どこか哀愁漂う存在、それが「打撃投手」である。しかしその仕事は、チームの浮沈を左右するほどの重要なものであることは、あまり知られていない。
普通、打撃投手は打ちやすい球を投げるため、少し力を抜いて投げる。簡単そうに思えるが、実はこれが打撃投手にとって、最も難しいのだという。ノンフィクション作家の澤宮優氏が語る。
「緩いとストライクが入らないんです。皆、思い切り投げる方が楽だといいますね。たまにキャンプなどで、一軍の投手が打撃投手を務めることがありますが、大抵失敗している。加減しなければと思えば思うほど、手元が狂うのです」
史上最多3回の三冠王に輝いた落合博満は、打撃練習で特に遅い、山なりの緩いボールを要求することで知られていた。遅い球をじっくり引きつけてミートすることで、自分のフォームを固めていくという調整法だった。
だが、これは打撃投手泣かせでもあった。実際、落合により引退に追い込まれた打撃投手もいる。理由は「イップス」だった。
イップスとは、精神的な原因によりスポーツの動作に支障を来し、本来の動きができなくなることをいう。打撃投手では、ほとんどの者がこのイップスを経験するといわれており、その最大の原因となるのが、この「緩い球でストライクが入らなくなること」なのだ。
例えば、「松井秀喜の恋人」として知られる北野明仁氏は、巨人時代の落合からも打撃投手として指名された。しかし、山なりのボールでストライクゾーンに入れるのはかなり難しく、焦った末に、投げる時は右足が前か左足が前かも分からなくなるなど、イップスになりかけた。
心配した落合が、「もうやめておけ、お前が潰れてしまう」と投げるのを辞めさせたことがあるという。
※週刊ポスト2012年12月21・28日号