連合赤軍などを題材とした社会派の映画で知られる若松孝二監督。タクシーにはねられて重傷を負った後、容体が急変し、10月17日に死亡した。作家の山藤章一郎氏が、破天荒な氏の人生を偲ぶ。
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踏みはずすと転がり落ちる狭い階段を2階にあがる。新宿ゴールデン街・呑み屋〈鳥立(とだ)ち〉。1畳半の畳敷きにちゃぶ台ひとつ。目の前に白髪の老革命家が坐る。足立正生(73歳)、反権力を生きた映画監督でもあった。
「お湯割り」階下に声を伸ばした。扇を持ったロマ女性が絵柄の〈ジタン〉をまず一服。若松孝二(映画監督・76歳・没)の無二の戦友である。
20代の半ばから50年、「バカヤロー生きてるか」が互いの挨拶だった。若松に弔辞を読んだ。お湯割りに、喉仏を鳴らす。
「俺らはな、カネがない、酒がない、じゃ映画撮るかってな。1ダース以上の手伝いが事務所に溜まってきて毎晩毎晩、ゴールデン街で酒飲む。若松さんが全員の酒代を毎回支払う。なぜ払うか。若松プロは、助監督料、脚本料、給料払わない。だからだ。
私の脚本料なんて、あんた、若ちゃん、ポケットごそごそやって『じゃ、これで』と。握り銭だよ。まあ数千円とか。
『この倍はくれよ』っていうと『お前、毎日飲んでんじゃん。俺とお前の仲だろ』って、それで終わり」
若松孝二は、この秋の盛りにタクシーにはねられて死んだ。青山斎場の祭壇は、子宮が遺影を抱くイメージでしつらえられ、黄色のバラとカーネーション3000本に埋まった。
奥田瑛二が「近年の尋常じゃない多作は、生き急いでいたのか」と悼み、気鋭の監督たちの作品に軒並み登用されている井浦新は「痛かったでしょう。そば屋を出て監督をタクシーに乗せ、見送った数分後に事故に」と声をつまらせた。タクシーを降りてから、はねられた。
寺島しのぶに贈られたジャケットを着て、棺に納まった。最も畏敬を抱いていた監督、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』のシーンのように、参列者全員の拍手で送られた。
※週刊ポスト2012年12月21・28日号