<最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき>−−最新刊『永六輔のお話し供養』(小学館刊)には、そんな信念を持つ永六輔さん(79才)と親しかった著名人との交流秘話が描かれている。ミリオンセラーとなった『大往生』から18年、“寺の子”である永さんが、長年の仕事仲間で『話の特集』元編集長・矢崎泰久さんと“永遠の別れ”について語り合った。
矢崎:永さん、こういう話を知ってる? 人間は一生にだいたい300万人の人間と知り合うんだってね。で、そのうち約3万人の人間の名前を覚える。さらに3千人と親しくなるというんだけど。
永:一方的に会うということも含めると、ぼくのような“放送の人間”は桁が違う。でも、ごめん、ぼくは数字は駄目なの。
矢崎:うん、知ってるよ(笑い)。でも、その知り合った人のうち死んだ人のことも覚えていれば、一生にはずいぶん大勢の人間を背負い続けるというんだけど。永さんは前から「たとえ死んでも、その人のことを覚えている人がいれば、それは生きてるのと同じだ」と言っていたけど、いつごろからそう考えてきたの?
永:ぼくは寺の子だから。人が死ぬっていうことが日常だったんだよね。花屋さんが花を、魚屋さんが魚を商うのと同じように、寺は、人の命のおしまいに立ち合ってきた。
矢崎:だから、死を身近に感じてきたわけだね。
永:ところで、最近はメディアでも一般の人でも、人が亡くなるとよく「天国へ行った」とか「天国で誰それと会っている」と言いますね。でも、仏教だったら天国はない。西方浄土なんです。もっと言えば、「草葉の陰」です。だから、お盆やお彼岸に帰ってくるのが簡単なんですよ。天国へ行っちゃうと行き帰りが大変(笑い)。
矢崎:お迎えに宇宙船を飛ばさなきゃ駄目だ(笑い)。
永:何でもないことだけど、そこを間違えないでほしい。キリスト教やイスラム教の場合は一神教で、天に神さまがいる。だから、天国でいいんです。われわれのところは、お坊さんにしてもお地蔵さんにしても、神さまにしても八百万の神々がいて、それと同じぐらい仏さまもいるの。
矢崎:要するに身近にいるってことが大事なんだね。
永:そう。だから、ぼくらの話を聞いているかもしれないから、悪口を言わないようにする。お盆とかお彼岸に高速道路が渋滞になるでしょう。あれは、亡きおじいちゃんやおばあちゃん、ご先祖のお墓参りに帰るんだよね。毎年のあの渋滞は、日本人がいかに信心が厚いかっていうことなんですよ。
矢崎:そうか、渋滞になるのはいいことなんだ(笑い)。自分たちも気がつかないだけで、日常的に信仰心を持って生きてる証拠だね。
永:お盆には日本じゅうで迎え火と送り火を焚き、花を供え、盆踊りのやぐらを組むけど、あれは、まさにあの世から見えるように「ここがあなたのふるさとですよ」と教えてあげることなんです。
※女性セブン2012年12月27日・1月1日号