製造業は低迷し、負のスパイラルに陥っている日本。資源のない我が国を発展させるのは、豊かな“人資源”しかない。ところが、それを供給するべき教育が時代の要請に十分応えられていない、と瀧本哲史氏は言う。今、京都大学で人気ナンバーワンの若手教官、瀧本哲史客員准教授が、若者に「これからを生き抜く術」を説く。
* * *
日本の教育において今重要なテーマは、高等教育をいかに行なうかと、初等教育をどう底上げするかの2つに絞られると私は考える。
高等教育、とりわけエリート向け教育の重要性が増している理由は、米アップルの事例を見るとわかりやすい。
iPhoneの世界的なヒットの裏には「全体を設計する少数の人(上級管理職)」と「その他の作業をする人(未熟練労働者)」しかいない。同社のデザイナーはわずか20人ほどだという。圧倒的な雇用は中国や台湾で生まれていて、米国にはない。
アップルはもはや米国内で「製造に必要な均質な労働力」を求めず、より人件費の安い海外で代替している。米国では同社の繁栄が中産階級を消滅させると言われているほどだ。マニュアル通りの作業ができる人材は置き換え可能だから、より安いほうが選ばれる(コモディティ化する)のが、グローバル社会の現実なのである。
もちろん日本にもその潮流は押し寄せている。博士課程を修了した専門家でさえも、「決まった問題を効率よく解く」知性だけに優れた人は供給過剰となり、高学歴のワーキングプアやニートとしてもはや社会問題化している。
グローバルに発達した資本主義社会で日本の個人や企業、国が生き残るためには、エリート教育を立て直すことが喫緊の課題だと言える。
そこで私が京都大学で実践しているのが、「武器としての教養」を身に付ける授業だ。米国においてもリベラルアーツは重視されており、世界中でビジネスをする投資銀行などは、リベラルアーツカレッジの卒業生を多く採用している。
というのは、より高度で進んだ専門知識は、大学よりもビジネスの現場にあるのが実情だからだ。入社してから身に付けることができる専門知識よりも、「幅広い教養を駆使して考える」「新しい発想を生み出す」「チームで議論して解決策を生み出す」といった、専門分野を横断する能力を米国企業は重視している。
日本企業が求める人材も同じだ。ところが、日本の大学の多くはいまだに学部ごとに縦割りされた専門教育に偏っていて、それらを統合する教養教育に力を入れているとは言えない。
教養教育の実践には少人数での議論や文章を書くトレーニングが欠かせないが、そうした授業を行なうには大学教員数の対学生比率を高める必要があり、コストがかかるためだ。また、指導教員自身の育成も課題であろう。
教養の本質は、知識の深さではない。世の中には多様な意見が存在することを認め、俯瞰して比較し、その中からよく考えて選択した上で、主体的な判断をするための考え方を身に付けることである。
明治以降の日本には「富国強兵」「殖産興業」という国家目標があり、欧米というモデルが存在した。しかし、現代は全員が賛同する「正解」はないということを知らなければならない。先が見えないからこそ、「自分で課題を設定して問題を解決できる」リーダーが必要だ。彼らが日本の至る所でイニシアティブを発揮し、お互いに競争すれば、我々は前に進むことができるはずだ。
※SAPIO2013年1月号