大晦日に食べる年越しそばの習慣はいつから始まったのか。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が解説する。
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年越しと言えば、そばだ。何はなくともそばである。
と、思い込んでいたが、各種調査を総合すると日本人の「年越しそば率」は60%前後に落ち着くという。「意外に低い」という印象もあるものの、近年の紅白歌合戦の視聴率が40%程度にとどまっていることを考えると、その定着度は尋常ではないと考えてもいいのかもしれない。
多くの食習慣と同じように、年越しそばの由来にも諸説ある。一般に江戸時代の中頃からよく知られているのは「細く長く」にかけた長寿祈願説だ。そのほかそば粉は組成上、切れやすいことから「1年の災厄を断ち切る」という説や「江戸時代に金座、銀座などの加工所で、金粉・銀粉などを集めるのにそば団子を使った」「金箔を延ばすのに使われた」という縁起物としての解釈もある。
ただし、いずれも「大晦日に食べる」ことの必然性は弱く、もともとあった習わしに後から意味を持たせたと考えるのが自然だろう。ではその起源はどこにあるのだろうか。ざっくりとではあるが、この機会に整理してみたい。
・鎌倉時代の「運そば」説
1242年に博多の承天寺を建立した聖一国師と、その建立に尽力した宋の貿易商、謝国明が不況の年末に飢えた博多町民にそばを振る舞った。すると翌年に日宋貿易で多くの船が来航し、町が活気を取り戻した。以来、年越しには「運そば」を食べる風習が博多に根づき、そこから全国に広まったとする説。ただし、当時は現在のような麺状ではなく、「そばがき」「そば団子」状のものだったという。
・室町時代の「増淵民部」説
室町時代に「関東三長者」のひとり、増淵民部が大晦日に家人とそばがきを食べ、無病息災を祝ったとする説。その際、「世の中にめでたきものはそばの種 花咲きみのりみかどおさまる」と詠んだと言われるが、増淵民部についての詳細は謎に包まれている。
・江戸時代の「三十日そば」説
現在の「年越しそば」に近いものとしては、江戸時代の月末にそばを食べる「三十日そば」という風習が元になっているという説。実は「三十日そば」自体、増淵家が発祥とも言われているが、「年越しそば」として庶民に広まったのは江戸中期。この頃には、現在のそばの形状に近い「そば切り」が定着していた。
ちなみに現在のような麺状の「そば」がいつ頃確立されたかとなると、16世紀後半からの文献で「そばきり」という記述が、江戸をはじめ、本州の複数か所で確認されている。現存する最古のそば店として知られるのは、1465年創業の京都「本家尾張屋」だ。もっとも創業当初は、そば店というより宮中や寺社に菓子を納める菓子司であり、当時の慣習として、そばの注文も菓子司に行われていたところから、次第に「そば屋」としての認知が広まっていったということのようだ。同店では現在も「そば餅」や「蕎麦板」、「そばぼうる」などの甘味が販売されている。
古い文献は、神話がそうであるように「物語」という側面も強い。何が真実かはさておき、その起源に思いを馳せたりしながら、自らの1年を振り返るのに「そば」はうってつけの一杯に違いない。
年を越さぬうちに年越しそばを食べきり、1年を振り返る。そんなリセット作業は自然と新年への備えにつながっている。