私たちは今、洪水のように溢れかえる情報の中を生きている。電車の中で人々は新聞や雑誌を読む変わりにスマートフォンの画面をスライドしている。そこから世界につながり無数の情報を得ているのである。しかし、その情報は私たちを幸せにするものか? 多すぎる情報は、安息よりもはるかに不安を与えやしないか。勝谷誠彦氏は、この情報の供給過多の時代にあって、「善く生きる」とはどういうことかを説く。メルマガNEWSポストセブンVol.46に掲載された同氏のコラムを3回に分けて全文掲載する。今回はその3回目である。
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(※12月30日配信分からの続き)
今年でこそ3万人を切りそうだが、自殺者の増加は、不景気のせいばかりにされてきた。私はそれだけではないと思う。情報の津波にさらわれた人々が「自分とは何か」と考え始めた時に、たとえば鬱病になるのではないか。自殺者と同じく、鬱病の人も驚くべき速度で増加している。そこへもってきて「世界に一つだけの花シンドローム」(私が名付けている・笑)だ。なにがしかの自分がどこかにある。あの人も、あの人も見つけている。だから自分も探さなくちゃ…。
そんなもの、ありません。
私たちの存在は、状況が規定するのだ。これは「なげやり」とは違う。あくまでも「善く生きる」ことの結果だ。昔はそれを「努力」といった。最近では結果が出なくても「努力」ばかりがもてはやされる。それは「善く生きる」とはまた異なっている。
あなたが知るべきは自分の情報処理の能力だろう。それこそが本当の「自分探し」である。情報が入りすぎてきた時に、その能力を超えると、強すぎる電流が流れたようにヒューズが飛んでしまう。疲れ切っている人、心の病の人、そうではありませんか。どこにも「こうであるべき自分」などないのだ。ただ「善く生きよう」とだけ考えていれば、あとは起きたことが「最善」なのである。そう思うと楽にならないだろうか。
選挙のことに戻ろう。
政治もまた「状況がいまを規定する」世界なのである。だから、あの政党がどうだ、この政治家がどうだというのは「いま現在の蜃気楼のようなもの」だ。そう言われると身も蓋もないと叱られそうなのだが、事実なのだから仕方がない。そして「状況がいまを規定する」のだと考えれば、つまりはあなたの一票の積み重ねが「状況」を作り、いま、そして未来を決めるのだ。
「私はこうである」「私はこうなりたい」という「我執」と「自我」が今の日本国を硬直化させ「デフレ民主主義」を作っているように思われてならない。いや、それだけではなく、自殺者を増やし、心を病む人々を作り出している。
国家そのものがこうなると厄介だ。ファシズムというのがそれである。そしてそれは人々が先に書いたような状態になった積み重ねの上にある。だからこそ、私はいま「自分さがし」や「俺が俺が」をやめて、もっと楽になって、しかし状況には参加しようよと、言い置きたいのだ。
もっと楽にやろうよ。
それは楽しく生きて「世界に一つだけの花」を探しに行くことではない。もっと厳しく「私とは何ものでもない。しかし、世界を何ものかに変える力は持っている」と信じることだ。あなたこそが、自分を、世界の中に規定する状況を作る当事者のひとりなのだから。
この自覚を持てば、投票の棄権などできるわけがない。自分が明日の状況を作る。その状況が、自分の未来を規定していくと理解できているのならば。
社会の、いや人間関係の中で生きていく以上、これは仕方がないことだ。だから、割り切った方がいい。そうすれば、あなたは何を捨てるべきかがわかるはずだ。
「捨てる」ブームは周期的にやって来る。しかしあんなものは、むしろ我執の裏返しである。極端に言えば私ならば「まずスマホだけ捨てなさい」かな。