2012年を代表する日本人のひとりに、レスリングの吉田沙保里は間違いなく入るだろう。8月にロンドンで五輪三連覇、続く9月に世界選手権を10連覇、あわせて世界13連覇の功績により、11月には国民栄誉賞を受賞した。
「まだ全然、負ける気がしない」という吉田は、今後も世界連覇を続けたいと意欲を見せているが、祝勝会に祝賀会、講演やイベント、そして東京五輪招致活動など多忙をきわめていたため、12月末の全日本選手権を欠場した。
2011年まで吉田が10連覇した全日本の女子55kg級で優勝したのは、北京五輪での吉田の姿にあこがれ、柔道から転向して4年目の村田夏南子(日大)だった。
リオデジャネイロ五輪へ向けて今後、吉田を追い抜く可能性がある選手は優勝した村田だけではない。なかでも急成長の注目株は、至学館高校3年生で3位になった川井梨紗子だ。
鋭いタックルで次々と得点し準決勝で村田をリードしたときには、高校生女王の誕生かと期待された。ところが試合終了間際、みずから入ったタックルの上から、年上の村田に力強く覆いかぶさられフォールされてしまった。
試合後、こらえきれずに涙をこぼしながら、川井は試合を振り返った。
「勝てると思ってました。詰めが甘い。内容じゃなくて、結果が全部だから。こういうところがダメですね。得点ではリードしていたんだから、あと少しだけ我慢していれば勝てたのかな」
表彰式後の写真撮影ではメダルを手に少し笑顔を見せてくれたが、銅メダルは「嬉しくない」とすぐに首からはずしてしまった。
石川県出身の川井は、元学生王者の父、元日本代表の母の長女としてレスリングを始めるのが当たり前の環境に育った。中学を卒業すると、もっと強くなりたいと吉田沙保里の恩師である栄和人監督が指導する愛知県の至学館高校へ進学した。
吉田が世界13連覇を遂げた昨年9月の世界選手権では、川井は五輪では実施されない階級、51kg級の日本代表だった。常勝日本女子の新星と期待されたが、弱気になり雑なタックルをしてしまう「悪い癖が出て」メダルにも届かなかった。
夏までは、51kg級で世界一になってから吉田と同じ55kg級へ階級変更するつもりだった。予定が狂って、周囲は51kg級をもう一年続けるようにすすめたが、「リオデジャネイロ五輪には私が出る」と自分で監督や母を説得して、全日本選手権は55kg級に出場した。
「優勝できると思って試合をしていました。今回は、マイナス思考になんて一度もならなかったのに……」
敗れた準決勝を思い出すと、川井の切れ長の目から再び涙がこぼれた。
4月には川井も、吉田が卒業した至学館大学へ進学する。そして6月に開催される明治杯では、吉田が復帰してくる見込みだ。普段から一緒に練習しているとはいえ、雲の上の存在だった人がライバルになる日がやってくる。
「沙保里さんは、攻めても守っても強い。私が点を取れるときもあるけど、守りや投げ技に弱いから取り返されて負けちゃう。沙保里さんと練習すると、自分は足りないところだらけだなと感じます」
今では死角がみえない吉田だが、11年前の全日本選手権準決勝では、リードしながら試合終了まで残り15秒から当時の世界女王、山本聖子に逆転負けした。それまで、格上の先輩レスラーには勝てなくて当たり前とあきらめる試合運びが目立ったが、逆転負け以降、試合中に弱気が顔を出すことはなくなり世界13連覇の第一歩が始まった。
逆転負けして3位に終わった川井に栄監督は、「もっと悔しがれ! 沙保里は勝つことしか考えてなかったぞ!」と叱責した。「タイミングをとるセンスがいい」と才能をみとめるが故に、あきらめる弱気が歯がゆい。
「もし負ける時が来るなら、相手はいつも練習している後輩が来てほしい」と吉田は口にしている。その相手は、かつての吉田のように悔しい逆転負けを味わい、タックルが得意な川井梨紗子になるかもしれない。