約80年に及ぶプロ野球の歴史の中では、数々の名勝負が繰り広げられてきた。しかし、どんなに有名な出来事にも、まだまだ知られていないエピソードが存在する。今だからこそ語れる、「あの時」のベンチ裏秘話をお届けしよう。ここでは1971年の日本シリーズからだ。
巨人がV9を成し遂げる間、阪急は5度日本一に挑戦して、一度も巨人に勝てなかった。
1971年の日本シリーズは、その4回目の挑戦。1勝1敗で迎えた第3戦は、2回に1点を先取、エース・山田久志は9回裏2死まで巨人打線を零封していた。
一塁上にはこの日初めて出した四球の柴田勲。3番・長嶋の打球はからくも遊撃の右を抜けてセンターへ達し、2死一、三塁と状況は変わった。迎えたのは4番・王貞治。
カウント1-1後の3球目に山田が投げたのは、本人曰く「この日ベストの内角への直球」だったが、王のバットが一閃、打球は無情にもライトスタンドへ突き刺さった。
がっくりとマウンドに崩れ落ちる山田。これをきっかけに山田は「直球で押すだけが投手ではない」と猛練習に励み、伝家の宝刀のシンカーを手に入れるのだが、それは少し後の話。
この時はまだ西本幸雄監督が、「今夜は好きなように遊んで来い」と言葉をかけるしかないほど、失意のどん底にいた。
実際この夜、銀座、六本木でハシゴしてやけ酒をあおった山田は「どうやって宿舎に戻ったのか記憶にない」と語っている。
ただこの裏には、事情を察した夫人による気配りがあったことはあまり知られていない。夫人は、夫が立ち寄るであろう店に連絡し、
「今晩だけは好きなように飲ませてあげてください」と頼んだというのだ。
『山田には過ぎたるものが2つあり。できた女房と、打てないシンカー』
徳川家康を評した狂歌を捩った、こんな名言も生まれた。通算284勝の「史上最高のサブマリン投手」を生んだ背景には、妻の隠れた“ファインプレー”があった。
※週刊ポスト2013年1月18日号