野球は多くの人々を感動させてきたが、その裏事情を知るとより感動できる。ここでは、「伝説」として知られる近鉄×ロッテの10・19決戦の裏事情を紹介しよう。
1988年10月19日の最終戦。近鉄はロッテとのダブルヘッダーに両方勝利すれば、首位・西武を逆転して優勝が決まる状況だった。
普段は閑古鳥が鳴く川崎球場が超満員となり、近辺のビルの屋上にも観戦者が出た。テレビでは夜のニュース番組中に異例の中継が行なわれるなど、全国が注目した試合。しかし当時、近鉄の主力選手だった金村義明は、この大一番に出場できないでいた。
「4日前にケガをして、戦線離脱していたんです。本当に悔しかったですね」
金村は唇を噛む。しかし、ナインは彼を見捨ててはいなかった。
「試合前日になって、仰木(彬)監督から電話が来たんです。“お前がいなかったらここまで来られなかった。皆でビールかけをやるぞ。お前も来い”ってね。中西(太)ヘッドやチームメートからも“俺たちは優勝する。はよ来い!”って電話をもらって、泣きながらチームを追いかけ上京したんです」
とはいえ戦力にはなれない。そこで金村は、勝利した時のため、銀座と六本木に祝勝会会場を手配した。
「その後で球場に行くと、皆が“よく来てくれた”と出迎えてくれてまた大泣きですわ。登録抹消されていたので本当はベンチには入れなかったんですが、監督がこっそり入れてくれて、私服の上からジャンパーを着て、バットケースの陰に隠れて応援していました。
皆のテンションがすごかった。どちらかというと守備の人の吹石(徳一)さんがホームランを打つわ、反対に強打で鳴らした淡口(憲治)さんが守備で超ファインプレーするわでね」
しかし、総力戦の甲斐なく引き分け。
「帰りのバスはお通夜みたいでしたね。祝賀会は残念会に変わり、予約していた銀座や六本木の店をハシゴ、みんなずっと泣きっぱなしでした。
紳士的で有名だったオグリビーでさえトイレで号泣してましたよ。試合中に涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗いに行くと、仰木監督も同じように顔を洗いに来ていた。目には光るものがありました。人前では決して涙を見せなかったあの仰木さんが……」
しかし翌1989年には、このときの悔しさをバネにリーグ優勝を果たす。
「仰木さんは、あの時が監督1年目。つねづね自分の野球の原点は10・19やといっておられました。その証拠に、仰木さんが晩年、病を押してオリックス監督を引き受ける際に行なった“生前葬”に呼んだのは、この10・19のメンバーでしたからね」
※週刊ポスト2013年1月18日号