兵庫、香川、滋賀で平穏に暮らしていた4家族を離散させ、死者・行方不明者は10人を超えるという犯罪史上最大級の尼崎事件は、主犯格・角田美代子の獄中死という最悪の結末を迎えた。事件発覚から3か月――。気鋭のノンフィクション作家・石井光太氏がその人生を追った。(文中敬称略)
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一九七〇年、尼崎は阪神工業地帯の中核都市として人口五十万人を越えるまでに様変わりしていた。朝鮮、沖縄、九州出身者の数もさらに膨れ上がり、駅前の居酒屋の看板には「ホルモン」「奄美」などの文字が躍った。赤提灯の居酒屋では、関東から来た者たちまでもが肩を寄せ合い、飛び交う方言の中で酒を酌み交わし、好景気を謳歌していた。
美代子は二度目の離婚と時を前後して、二十歳を越えた頃に横浜の伊勢佐木町へ進出した。尼崎での管理売春の仕事を通して、海路で結びつく横浜の人間との人脈を作り上げたのだろう。彼女はラウンジ「A」を経営し、数人の女性を雇った。
当時、伊勢佐木町は関東でも有数の歓楽街で、「親不孝通り」と呼ばれる路地にはスナックから売春施設までが所狭しと密集し、高度成長に浮かれた男たちが現金を握りしめて集まっていた。当時を知る元キャバレーの従業員は語る。
「ここらへんにはちょんの間もありましたね。Aが売春の店かどうかはわかりません。ただ、窓にはいつもカーテンが閉まっていた。近所の話では、お客さんに睡眠薬を入れたお酒を飲ませて身ぐるみはいだことがあったみたいです。警察が来ていたこともあったようです」
この店で、美代子に雇われていたのが三枝子(*注)だった。後に義理の妹となって逮捕される女性である。もともと母親同士が水商売の知り合いで、三枝子は母とともに美代子の実家に間借りしていた。美代子は弟の同級生だった彼女を妹分として仲良くしていたにちがいない。
ただ、三枝子はゴリラに似た風貌で「ゴリっぱち」と揶揄された美代子とは違い、細身で目鼻立ちがくっきりとしている現代風の美女だった。
美代子は三枝子を特にかわいがり、やがてママとして店の切り盛りを任せるようになった。美代子は自分に欠けている女としての振る舞いや生き方を三枝子に担わせようとしたのかもしれない。三枝子も彼女を「お姉ちゃん」と呼んでなつき、「子供ができたらお姉ちゃんにあげるね」と約束していた。
そんな折、美代子は知り合った東(鄭)頼太郎と内縁の関係となる。尼崎で育った二歳下の在日韓国人だ。頼太郎は中学卒業後、鉄工所、タクシー会社、運送会社など職を転々とし、美代子と知り合った際も同級生に「俺を食べさせてくれる女が現れた」と喜ぶ、うだつのあがらない男だった。
これを機に、美代子は母方の祖母と叔父が住む尼崎の家に拠点を置いて「東」と名乗り、頼太郎を養う。二度の離婚によって結婚を諦めながらも、ずっと家庭を持ちたいという気持ちがあったのだろう。
だが、三たび離婚して傷つくのはプライドが許さない。そこで言うことを聞く男と内縁関係を結んで「家族」を築いたのだ。弱い者を服従させて自分の世界を作り上げるのは左官業の父親の影響に違いない。美代子は「女」であることを捨て、家長になることを目指したのだ。
【*注】角田三枝子:40年以上前から美代子の義理の妹として行動を共にする。美代子が経営した横浜のラウンジの店主を務め、美代子が最も信頼を寄せていた。2001年に橋下久芳と結婚。美代子の実子とされていた優太朗の血縁上の母。
※週刊ポスト2013年1月25日号