シリーズ50周年を記念して制作された英語『007 スカイフォール』が全世界で大ヒットとなったが、諜報の世界に詳しい作家・落合信彦氏は、よりリアルな作品として『寒い国からきたスパイ(The Spy Who Came in from the Cold)』(1965年公開)を推す。名優リチャード・バートン演じるMI6エージェントが東ドイツに潜入するストーリーだ。落合氏がスパイの世界の内実を明かした。
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『寒い国からきたスパイ』で描かれるように、諜報機関のエージェントは孤独で過酷な職業だ。実際、何か大きな成果をあげても秘密活動なのだから大々的にそれが称賛されることはない。もちろん、軍人のように勲章をもらえるわけでもない。
逆に一度でも失敗を犯せば、他国はおろか、自国内からも「税金をよくわからないことに使っている上に、なんでそんなヘマをするのか」と非難の的にされる。そんな環境の中で、エージェントたちはどのようにして士気を保つのだろうか。
私は以前、伝説的人物であるイスラエルの諜報機関モサドの創設者の一人であり、2代目長官、イサー・ハレルにインタビューした際、「エージェントを選ぶ条件」を聞いたことがある。その時に真っ先にハレルが言ったのは、「自分からエージェントになりたいと言ってくる人間は間違いなくダメだ」ということだった。スパイに妙な憧れを持つ、目立ちたがり屋で自己愛の強いタイプは敵の手にかかると大抵、味方の重要な情報を簡単に相手に渡してしまうのだという。
ハレルがエージェントをスカウトする時の尺度として挙げたのが「愛国心があるか」であった。さらに問いを重ねると、「質素な生活に耐えられること」「家族を愛しているかどうか」という条件も語った。私はなるほどと思ったが、家族を愛する気持ちの延長線上に祖国を愛する気持ちがある、ということなのだ。ユダヤ民族として迫害される歴史を歩み、ついに祖国を建国するに至ったイスラエルならではの思考だとも言えよう。
「家族思い」という条件には別の理由もある。ハレルは、ある若いモサド・エージェントが休暇を取った時、妻に内緒で別の女とヴァカンスを楽しんでいる現場を押さえ、即刻クビにしたエピソードを教えてくれた。諜報機関の人間にとって「女」は最も警戒すべき存在の一つだ。〝ハニートラップ〟にかかり、敵国に寝返られたら、ミッションをともにするエージェント全員が危険に晒されることになる。
ちなみに『007』のジェームズ・ボンドは大の女好きだが、私はジョーク半分でハレルに対して、「それじゃあショーン・コネリーのダブル・オー・セブンについてはどう思いますか?」と質問した。すると彼はクスリともせずにこう返した。
「我々のやっていることに比べれば、あの映画の中でされていることは幼稚園児の遊びのようなものだ」
もちろんモサドがジェームズ・ボンドよりも派手な立ち回りを演じているということではない。映画よりもはるかに緻密で複雑な、しかし地味で目立たない活動を日々続けているという誇りから出た言葉だった。
周囲を敵国に囲まれたイスラエルは一瞬たりとも気を抜けない状況に置かれており、だからこそモサドは世界で最も優秀な諜報機関であり続ける。国民が危機感を共有し、情報を集めるエージェントたちは「国の運命を決める最前線の兵士」だという認識が失われないのである。
※SAPIO2013年2月号