昭和天皇ほど激動の歴史を生きた天皇もいないだろう。今だから言えることだが、天皇制が最大の危機にあったのも昭和の時代である。その戦いの姿を間近に見ていた今上天皇が、昭和天皇から受け継いだものも大きい。『畏るべき昭和天皇』(新潮文庫)の著者で評論家の松本健一氏が「昭和天皇が残したもの」を明らかにする。
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明治政府の権力中枢に就いた人々は、天皇を国家運営の手段とする天皇機関説を信奉しながらも、国民に対しては「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」という国体論を説いた。明治国家は、天皇を国家の「機関」とする天皇機関説と、天皇を「神聖」とする国体論の二重性のうえに成立していた。
その二重性は、天皇にのみ属する軍隊の統帥権を楯にとれば、軍部が独断専行しても政府にはそれを抑止する力がないという矛盾も生んだ。明治時代には山縣有朋、大山巌といった元老・軍人が軍部に重きをなしていたので、その矛盾は表に出ることはなかった。しかし昭和天皇には頼りとすべき重臣がいなかった。
そこから天皇の長く孤独な戦いが始まった。
昭和天皇が即位してまもない昭和3年(1928)、張作霖爆殺事件が発生する。日本、満州、中国を揺るがす大事件に、田中義一首相は「首謀者を徹底的に処罰します」と天皇に約束した。ところが調査を進めるうちに首謀者が関東軍の河本大作大佐であると分かると、「皇軍」の不名誉を嫌った軍部の抵抗にあい、うやむやに処理してしまった。
昭和天皇は「それでは話が違うではないか」と激怒され、田中に「辞表を出してはどうか」と迫った。後に『昭和天皇独白録』(文春文庫)で「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐる」と述べられているが、田中首相は辞表を出し、内閣は総辞職した。
「この事件(が)あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」(前掲書)。その背景は、立憲君主は「君臨すれども統治せず」という思想だった。それを強く説いたのは元老の西園寺公望だった。
大日本帝国憲法では天皇の統治大権が謳われるが、統治には内閣の輔弼(ほひつ)が必要とされ、西園寺の指摘は間違っていない。しかし一方で統帥権は大きな問題をひき起こした。それを楯に軍部が暴走したのだ。昭和16年(1941)、政府と大本営の対米開戦決定を天皇が拒否できない、という結果も招いた。
ただ、それらの明治国家の制度的矛盾の前に、昭和天皇は国家を守るために重大な決断を下している。たとえば昭和11年(1936)の二・二六事件では即決といっていい判断を下した。
同事件は青年将校が天皇の大御心(おおみごころ)を実現するために「君側の奸」を排除しようとしたクーデター(未遂)事件だった。しかし天皇は蹶起(けっき)軍を終始「反乱軍」と見なして動じなかった。
内大臣の斎藤実らを殺した蹶起将校に対して、ただちに武力討伐を命じた。君主の立場からすると、あの御聖断以外に正しい処置はなかったと思う。もし逡巡すれば、国を二分する内乱に発展したかもしれない。昭和天皇は理性的な政治判断を即時に下すことで国家を守ったのである。
※SAPIO2013年2月号