人治政治がはびこる中国では、権力闘争は時に愛憎が絡み合う泥沼の様相を呈する。ジャーナリスト・相馬勝氏が習近平氏と母・斉心氏の関係についてレポートする。(文中敬称略)
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習近平は12月7日、事実上の中国の最高指導者である中国共産党総書記に就任後、初の地方視察地として広東省深セン市を訪問。午後3時過ぎに深セン空港に降り立ち、市内各所を回ったあと、要人が宿泊する深セン迎賓館1号楼で静養中の斉心と再会した。
斉心はすでに86歳。毎年、春節(旧正月)には深圳市の地元幹部の慰問を受けるが、老齢の割に記憶力も衰えず、かくしゃくとしていて、まだまだ元気だという。深セン経済特区を創設した夫・習仲勲が広東省最高幹部として活躍していたころの苦労話をするなど、改革・開放の先駆者を支えた糟糠の妻として、いまだにその威厳を保っている。
習近平は25年間の地方幹部時代、何かあると気丈な母に電話や手紙で相談を持ちかけており、党最高指導部入りしたあとも頭が上がらないほどの“マザコン”といわれる。中国の最高指導者への道を駆け上がっていったのも母の支えがあればこそで、「習近平の最大のブレーン」と評する向きさえある。
「習近平が中国共産党のトップとして深センを最初の地方視察の地に選んだのは、もちろん斉心が深センに住んでいることが大きな理由だった」と中国政府筋は指摘する。
深センは父・習仲勲と斉心、さらに習近平にとっても忘れがたい地だった。広東省は習仲勲にとって起死回生の地でもある。文化大革命(1966~1976年)による失脚から復権し、鄧小平が提唱した改革・開放路線を広東省で軌道に乗せたからだ。とりわけ深センは当時、最大の経済特区であり、「改革・開放のショーウィンドウ」と呼ばれた先進的モデルケースだった。
鄧小平が「改革・開放の総設計士」と讃えられれば、習仲勲は「経済特区の父」と並び称された。習仲勲はその功績が認められて中央に戻り、党政治局入りして改革派の胡耀邦・総書記を支えた。
その下で改革路線の推進に尽力したが、胡耀邦ら改革派と、改革に反対する保守派の間で激しい権力闘争が展開され、胡耀邦は1987年、学生の民主化運動をきっかけに失脚。習仲勲も党政治局員を解任され、全国人民代表大会(全人代)副委員長という閑職に回されたのである。
習仲勲は任期を終えると、文字通り都落ちして深センに移り住み、忸怩たる思いで不遇な晩年を送る。その失意の夫に寄り添い、心身ともに支えたのが斉心だった。習近平は2度にわたり党に裏切られた父を見て権力闘争の熾烈を痛感し、「いつの日か、父の無念を晴らそう」と決意したに違いない。
※SAPIO2013年2月号