昭和天皇は戦前、二・二六事件では蹶起(けっき)軍を終始「反乱軍」と見なして武力討伐を命じた。それによって国を二分する内乱に発展することを回避したのである。だが、その後は蹶起軍の将校や遺族に対して長年気にされ、さまざまな配慮をされた。『畏るべき昭和天皇』(新潮文庫)の著者で評論家の松本健一氏が明らかにする。
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戦後の昭和天皇は国民を和解させることに心を砕かれた。特に二・二六事件については長年気にされていた。将校の遺族や国民の間にわだかまりがあったからだ。それは、昭和天皇が理性的判断を持った政治権力だったならば、なぜ財閥だけが富を貪り、娘を身売りさせなければならないほど農村を疲弊させてしまったのか。
なぜ当時の国民を苦しみから救ってくれなかったのか──国民にそのような複雑な想いがあり、そうした国家の矛盾に対して蹶起した将校へ同情もあったからだ。
昭和50年(1975)にエリザベス女王が来日したとき、昭和天皇は真崎甚三郎大将の息子を通訳にした。真崎は二・二六事件のとき蹶起将校が軍人内閣の首班にかつごうとし、内乱幇助の容疑で勾留されている(後に無罪)。その息子は外務省の役人になったが、二度も宮内庁に出向して天皇付きの通訳になった。天皇は真崎の息子と知っていて、そういう措置をとられたのだ。
一方、今上天皇も歌人の齋藤史(故人)を午餐会に招いたとき、歩み寄られて「あなたは齋藤瀏さんの娘さんでしたね」と声をかけられた。齋藤瀏(少将)も二・二六事件の際に反乱幇助の罪で投獄されている。さらに齋藤史は平成9年(1997)、皇室最大の文化的行事ともいえる歌会始に招かれ歌を詠む召人に選ばれている。今上天皇は昭和天皇の思いを引き継ぎ、二・二六事件から60年後でも国民をひとつにまとめようと尽力されていたわけだ。
昭和天皇は昭和63年(1988)9月に大量の吐血をされ、病床にあっても、「長雨にたたられた今年の米の作柄はどうなっているのか」と側近に尋ねられた。国民が天皇のご不例に戸惑い、国会が消費税を巡って激しい対立を続けていたとき、昭和天皇は日本が豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の「米づくりの国」であり、国の経済と国民の生活の根幹に影響を及ぼすのは米の作柄だ、長雨にたたられているがどうなっているのか、と問うた。祭祀の王として国民を見守る役割を最期まで果たそうとされたわけだ。
戦前の昭和天皇は幾多の政治的困難に直面しながらも、断固、立憲君主であろうとした。戦後は「国民の心を抱きしめ、慈しみ、祈る」ことこそが天皇の政の本質であると考え、またそれを実践された。
そして、今上天皇は皇后とともに政治家が忘れつつある東日本大震災の被災地に赴き、立ち上がろうとしている被災者たちをお見舞いされ、死者たちに祈りを捧げる旅を続けている。
昭和天皇の戦いを間近でご覧になった今上天皇は、昭和天皇が明治天皇の五箇条の御誓文に思いを馳せたように、昭和天皇の政の精神に立ち、受け継ごうとされている。
※SAPIO2013年2月号