「国民的スポーツ」と称されるプロ野球。だからこそ、球界で起こった事件の中には、未だに多くの人々の記憶に強く刻まれているものも多い。今回は「大事件」の裏側を、当時を知る人々の証言を元に明らかにする。
遺恨の発端は1973年、開幕前の両軍による、外国人選手・ラフィーバーの獲得争いだった。結果ロッテが獲得し、太平洋クラブはビュフォードを獲るが、このあたりから両軍の間に不穏な空気が流れ始める。
そして5月、川崎球場で事件が起きた。当時のロッテ監督・金田正一氏の話。
「ロッテの大量リードに怒った三塁側(太平洋)のファンが、球場の椅子を折って、プラスチック片をブーメランみたいに選手に向けて飛ばしよるんだ。危ないなんてもんじゃないぞ」
他にもビンや空き缶まで飛んでくる。たまらずロッテ野手陣はヘルメットを被って守備につき、三塁手・有藤通世は妨害を避けるため遊撃寄りに守った。だが太平洋側はファンを抑えようともせず、それどころか誰もいない三塁前へセーフティバント。さすがにカネやんがキレた。
「コラァ、サイ(太平洋・稲尾和久監督の愛称)! このどん百姓!」
この発言に太平洋側が、「金田監督から“田舎者でマナーを知らない”といわれた。厳重に抗議する」
と発言したことで、さらに九州のファンを刺激して、遺恨は決定的となった。その後はまさに一触即発。福岡・平和台球場では、試合後に球場が太平洋ファンに囲まれて、ロッテ選手が何時間も軟禁される。結果、機動隊が出動して護送車で脱出した。こんなことが合計2度もあった。
1974年にはついに“開戦”。ホームでのクロスプレーを巡ってカネやんとビュフォードが激突し、両軍入り乱れて大乱闘に発展。その時撮られた、ビュフォードがカネやんを押し倒した写真がポスターになり、「今日も博多に血の雨が降る!」というキャッチコピーが、西鉄の各駅を飾った。
ただ、この遺恨は作られたものだった。背景にあったのは太平洋球団の経営難。前身・西鉄は、1969年の黒い霧事件以降客足が途絶え、1973年に身売り。しかし不入りは変わらず、困窮を極めていた。
「太平洋の球団代表が、“給料を出すための現金がない。営業のために遺恨試合にさせてもらえないか”といってきた。ワシは盛り上げるためと思って快諾して、煽ったんだ。おかげで閑古鳥の鳴いていたスタンドに、怒ったファンが押し寄せ、大成功だった。
ただ、選手やファンは事情を知らないからね。ベンチの上を見ると、ワシにひっかけるためにイチモツを出してコップに小便を溜めて、待ち構えている奴らがいるんだ。ワシは砂をぶっかけて対抗してやったよ。いやァ、無茶苦茶だったな」
カネやんは昔を懐かしむ(?)ように笑った。
※週刊ポスト2013年2月15・22日号