NHKの朝ドラはその歴史、幅広い視聴者層、長期間に及ぶ放送からして独特の番組だ。それだけに制作側も“独特の演出”を求められるのだろうか。作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が指摘する。
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NHK連続テレビ小説『純と愛』も残すところあと1/3。2か月を残すだけとなりました。視聴率は17~18%台と、低下することもなく一定の水準を保っています。いまだにお茶の間の関心を惹きつけ続けている、と言っていいでしょう。
ラストへ向かっての「視聴率維持」の工夫の中に、ある問題が隠れている、と思うのは私だけでしょうか?
最近のストーリーは、DV、立てこもり、離婚、失業、認知症。乳幼児を火傷させる。包丁をとり出して自殺未遂。とにかく刺激的でダークでエグいエピソードを狙っているのか、その連続です。
一言で表せば、刺激、刺激、刺激。小さな人間集団の中に、次から次へと刺激物を投入する脚本家・遊川和彦氏。
それによって、ハラハラドキドキさせて、視聴者を次に引っ張っていく。「お化け屋敷」手法と言えばいいでしょうか。
でも、毎朝、刺激物を与えられている視聴者が、もはや心に疲れを感じていることに、脚本家はお気づきでしょうか。
視聴者のこんな感想に、ハッとさせられました。
「不朽の名作がぼろぼろに捨てられ、投げられる。なぜこんな表面的で安直な演出しかできないのか」
それは、投げやりになった父・善行が、そこにあった太宰治『人間失格』の文庫本を投げ捨てるシーン。ドラマのストーリーと『人間失格』の関係は何も描かれていない。ただ『人間失格』というタイトルだけを利用したかったのでしょう。が、この本に思い入れがある視聴者なら、ぞんざいに投げ捨てられるだけの素材扱いに、憤怒して当然でしょう。
そうです。このシーンがまさしく象徴しています。
『人間失格』も、認知症も、自殺未遂も、引きこもりも、DVも。単に、物語を引っ張るための刺激的素材として使っているだけ。お化け屋敷の中で、次から次へと怖い仕掛けに出合うがごとくに。そんな風に感じてしまうから、見る側には疲労感や暗さやむなしさばかりが残る。
お茶の間の一般庶民の暮らしの中に、認知症もDVも引きこもりも実際にある。そのひとつひとつの対処に、全エネルギーを注ぎ、毎日毎日格闘しながら何とか生きている人がいっぱいいる。だから、単なる刺激物として扱われることに敏感なのです。
振り返れば、NHKの連続テレビ小説は50年以上続いてきた。その中で、「47都道府県すべて」がドラマの舞台となってきた歴史があります。それは、他の民放には無い「型」とも言えるでしょう。
土地や時代、社会的広がりや背景を取り込み、風土の魅力、そこで暮らす人々の生き様、ふるさとの匂いや味わいをいきいきと立ち上がらせるという「型」です。
「朝ドラの型を壊す」宣言をした遊川氏。徹底してその「型」を無視して、閉塞した人間関係の中の刺激的でエグい出来事によってドラマを貫く意図かもしれません。
問われるのは、こちら側です。あと2か月見続けることができるのかどうか。正直、自信がない。でも、最後に突然、希望的な展開になり善人ドラマになってしまっても、今さら受けいれられない。戸惑うばかりです。