自らを粘着質で言葉に対して偏愛的と語るしゃべりのプロ”であるフリーアナウンサーの梶原しげるさん(62才)。このほど、「今どきの日本語の真実」をつづった『ひっかかる日本語』(新潮新書)を上梓した。
20年間、文化放送のラジオアナウンサーを務め、“日本語”に並々ならぬ情熱を注いできた。
「入社当初は深夜放送を任されていたんですが、ほかの曜日のパーソナリティーはさだまさしさん、谷村新司さん、せんだみつおさんなどそうそうたるメンバー。コンサートのツアー先で起こったことなどを実に面白く語るわけですよ」(梶原さん・以下同)
著者はアナウンサーとはいえ、一介のサラリーマン。毎日会社にいるわけで、面白い出来事なんてそうは起こらない。そこでどうしたもんかと頭を悩ませ、これは得意分野の言葉で勝負するしかないと思ってから、日本語への執着心がますます増した。
普段何気なく使われている言葉を辞書で調べてみると、多くの言葉が本来の意味とは違う使われ方をしているのに気づいた。
「たとえば、はんこ屋さんにいって“印鑑作ってください”と言うでしょう? でもはんこ屋さんには“印鑑”というものはないんです。“印鑑”は彫るものでも、作るものでもない。紙に朱色の印がつく、“印章”のことなんですよ。
普段使っている言葉なのに、実は勘違いしていたなんてことがよくあって。それ以来、なんとなくひっかかった単語や文章の意味を調べたり、考えるようになりました」
相手の言葉遣いがひっかかったことで、後悔せずにすんだというエピソードがある。それは88才になった母親が亡くなったときのこと。自宅で心臓発作を起こし、そのまま息を引き取った。自宅での突然死は変死扱いになるため、司法解剖が必要に。遺体は何十㎞も先にある病院まで移送されることになったが、それは救急車ではなく、葬儀社の車を使うらしいということがわかった。
「男性ふたりが仰々しくお悔やみの言葉をかけてくれたのですが、“病院の検視のあとは私どもの会社の霊安室に持ち帰りますが、通夜、告別式もうちの会場の空き次第。友引もありますんで、とりあえずドライアイスを多めに入れておきます”などまるで母の遺体がモノのような言いかた。流れ作業で葬儀をしようとする姿勢に不信感を覚え、“移送は任せるけれど、葬儀はおたくの会社ではしない!”と言いました」
本来はスムーズにいくはずの遺族とのやり取りが、思わぬ展開に。さぞや葬儀社はあわてたことだろう。
「その後も彼らは“ほかの業者さんにお願いするにしても、裸のご遺体を外で積み替えるのは大変”などと言うんです。“積み替える”“裸”といった業者の言葉がいちいち気に障りました。彼らにとって母の遺体は商材なんでしょうね。客にこんな口のきき方をする業者にはますます任せられないと、すぐにインターネットで別の葬儀社を探しました」
最初に表示された業者に電話をかけるとワンコールで係の人が出た。
「彼の口調は落ち着いていて、短いあいづちの中にも“ちゃんと話を聞いている”という姿勢が伝わってきました。そして“ご遺体はまだ病室ですか? 霊安室ですか?”と非常にシンプルに“Aですか? Bですか?”と聞いてくれるので、こちらも答えやすい。そして“お母様をお迎えする場所が移送先の病院の近くにありました”など母をちゃんとしたひとりの人間として扱ってくれている。その安心感から葬儀はその業者に任せることにしました」
ここで終わる著者ではない。葬儀が終わったあと、自らその葬儀社に出向いた。
「どうしてこういう丁寧な接遇ができるのか知りたくて。そうしたら社長自らが対応してくれたんです」
社長は以前、ブライダル業をやっていたという。葬祭業はそれ以上に人生に必要なものだろうと感じて始めた。社長いわく、人間死ぬのは1回。しかも突然やってくるわけだから、家族は悲しさ、むなしさ、ときには怒りがこみあげてくることもある。昔と違って、人間関係が希薄になった現代だからこそ、遺族を混乱から立ち直らせ、気を落ち着かせるのが葬儀社に求められることなのではないかと。
「私はこれを聞いて納得しました。私が最初に電話したとき、係の人の質問は“Aですか? Bですか?”とこちらが答えやすい形式でした。“今、どんな状況ですか?”と聞かれても戸惑うだけですからね。
相手の状況がどうであるか、何を必要としているかをくみ取り、話す姿勢の大切さにあらためて気づかされ、“ああ、あのとき前の業者の言葉にひっかかっておいてよかったな”と思ってます」
※女性セブン2013年2月28日号