わずか3年間で実現が見えてきた、横浜市の「待機児童ゼロ」。旗振り役となったのは、林文子・横浜市長(66才)だ。アメリカの経済誌『フォーチュン』で「米国外のビジネス界『最強の女性』10位」に選ばれ、2006年には、経営破綻に陥ったダイエー再建の舵取り役として同社の会長兼CEOに抜擢されるなど、日本を代表する女性経営者として“働く女性”の道を切り拓いてきた。
しかし、その素顔は決して特別な女性ではない。林さんは、高校卒業後は大学に進学せず、事務職として企業を点々とした。お茶汲み、コピー、台帳貼りといった仕事を約10年にわたって地道に続けてきた。
飛躍のきっかけをつかんだのは1977年、31才の時だった。ホンダの販売店の『セールスマン募集』の新聞折り込みチラシを見て、迷わず応募したのだ。
「私はもともと話し好きで社交的です。ドライブも好きだったので、自動車販売の仕事が自分に向いているのではないかと思ったんです」(林さん)
セールスは実績がものをいう世界。「男女差別がないかもしれない」という期待も抱いていた。だが現実は甘くなかった。
「先方は当然、男性が申し込んでくると思っていたらしく、『女性のセールスは前例がない』と断られかけました。そこで『3か月で駄目だったら、辞めさせてくださって結構です』と頼み込んで、やっと採用してもらえたんです」(林さん)
しかし、時代はまだ男女雇用機会均等法が施行される9年も前のこと。女性が男性と肩を並べて働くことへの偏見は根強く、集合研修に参加しようとすると、「女性はちょっと」と断られ、本来先輩社員と組んで教えてもらうはずの「飛び込み営業」も、「女の人とやるのは恥ずかしいよ」と拒否されてしまった。
「仕方がないので、トップセールスマンになったかたの本を読みました。そこに書いてあった『1日100軒訪問する』を実践したら、営業成績が伸びていったんです」(林さん)
負けん気と体力で働き、持ち前の“おもてなし力”で顧客との信頼関係を築いていった。
「訪問先の奥様が風邪をひいていたら代わりに買い物に行ったり、いい植木屋さんを紹介したり、歌舞伎のチケットを手配したり。“御用聞きセールス”ですね。1日16時間くらい働いて、土日も夫と家で過ごす時間はほとんどありませんでした」(林さん)
営業成績は常にトップ。それでも出世は男性にどんどん先を越されていき、役職がなかなかつかなかった。救いは、夫・義弘さんが、林さんが働くことに賛成していたこと。
「当時は“妻は家を守る”という考え方が当たり前でしたが、夫のほうも仕事が忙しく、『奥さんに家でじっと待っていられるのは嫌だ。きみが外で好きな仕事をしているので、気が楽だ』と言ってくれていました。大変助かりましたね」
そう言って林さんは笑う。
41才でBMWに転職。外資系の同社は男女差別がなく、実力主義で昇進が決まる。ここでも圧倒的な成果を上げ、1年ごとに主任、係長、課長とキャリアの階段を駆け足で上った。
その後、社長にまでのぼりつめ、経営再建にかけるダイエーに請われて同社の会長兼CEOに就任。2008年からは東京日産自動車販売の社長を務めた。しかし、1年あまりで横浜市長選への出馬を決める。
縁のなかった政治の世界に足を踏み入れた背景には、自らが味わってきた“理不尽な苦しみ”を解消する決意があった。
「それまでのキャリアの中で、女性ゆえの苦しみを嫌というほど抱えてきた歳月がありました。でも、がむしゃらに頑張ってきて、気づけば女性であっても企業のトップに迎えられ、日本第2の大都市の市長選に『出馬してほしい』と要請されるまでになりました。『日本はこんなに変わったんだ』ということに感動したと同時に、女性にとって生きやすい社会をつくることはこれからの私の使命だなと感じたんです」(林さん)
※女性セブン2013年3月7日号