プロ野球界には、古田敦也の控えとして長くチームを支えた野口寿浩や代打のスペシャリストとして活躍した川藤幸三など、“二番手”としてチームに貢献した選手が数多く存在する。
だが、二番手として生きる選手たちとて、決して一番手になる野望を捨てたわけではない。若ければ若いほど、一番手の座を虎視眈々と狙っているものだ。その一例が、1977年にドラフト4位で広島に入団した達川光男である。
「当時は水沼四郎さんと道原裕幸さんがいて、水沼さんが正捕手で、道原さんと私が二番手争いをしていた。水沼さんにはキャンプの時に、“タツ、彼岸までは頑張れや”なんていわれてね。彼岸は3月23日、つまりは“オープン戦だけやれ、シーズンは俺がやる”という意味ですわ。悔しくてなんとかレギュラーになろうと奮闘しました。水沼さんとは仲良く喋った記憶はなく、挨拶くらいしかしなかったですね」
水沼と同じことをしていては勝てないと感じた達川は、当時在籍していた江夏豊、古葉竹識に教えを乞うた。指摘されたのはキャッチングの強化だった。
「江夏さんから、“教えてほしければ10万球受けてから来い”っていわれて、本当にマシン相手に受けました。10万球受けると腰が痛くなってね、左ヒザを地面についたんです。すると膝が邪魔にならずに、ミットの前が広くなって捕りやすくなった。その後で、ノーサインで投げる江夏さんの球を受ける練習をさせてもらった。それで投手陣の信頼を得て、ブレイクに繋がりました。
転機は1982年。水沼さんが海外に行っていたか何かで、明らかなウェイトオーバーでキャンプインしてきたんです。ベースランニングも苦しそうで、“ここしかない”と思って頑張り、その年に半分以上の試合でマスクを被った。水沼さんは翌年にトレードされましたね」(達川氏)
(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年3月15日号