剣豪、武将、格闘家、軍人。歴史上、強いとされてきた男は多い。では「最強」となると誰なのかその判断は難しい。しかし、現代まで伝わるエピソードを紐解いていくと、国や忠を尽くす主君のために戦ったもの、時代の荒波から己の身を守るために力を求めるもの、純粋に最強を目指すもの、「強さ」を求める理由に違いはあれど、男達がやがてある境地に達する様がよくわかる。豪快な逸話を持つ最強の男たちから、宮本武蔵を紹介する。
日本の「最強伝説」はこの男から全てが始まったといっても過言ではない。 いわずと知れた剣豪・宮本武蔵。晩年に書き記したとされる「五輪書」によれば、13歳で新当流の有馬喜兵衛との決闘に勝って以来、29歳までの60数回に及ぶ闘いのすべてに勝利したという。
柔道家、木村政彦が、吉川英治の『宮本武蔵』を読んでから試合に臨んだように、今なお多くの武道家、格闘家に影響を与え続けている。
二天一流の祖。“二刀流”は武蔵の代名詞である。
『宮本武蔵大辞典』(新人物往来社)を纏めた歴史家、加来耕三氏が語る。
「武蔵が左利きであったことは、彼の描いた絵の鑑定から明らか。二刀流で武蔵を超える剣士はついに出てこない。自らの利点を生かした戦法を編み出すところに天賦の才を感じます」
「五輪書」や武蔵の養子・伊織が承応3年(1654)に記した「小倉碑文」などの記述によれば、足利将軍家代々の師範であった兵法家、吉岡清十郎を武蔵は木刀の一撃で破っている。このとき、吉岡門弟数百人が弓矢を持って武蔵を襲おうとしたのだが、この企みを事前に知った武蔵は自らの弟子の加勢を得ることなく、一人で打ち破ったとされる。
こうした数々の伝説は、創作ではないかという指摘も一部であるが、「ルール無用の殺し合いという実戦では、相当強かったというのは間違いない」と、加来氏は指摘する。
「実は武蔵が流派を持つ剣術を、教えを受けてまともに学んだという史実はないのです。武蔵の剣法は、山に籠って猪などの野生動物と対峙した場合にどう戦うのかを研究して編み出されたものであり、いわば独自路線の“山岳剣法”なんです。試合に遅れる、前もって隠れるなどの手段は、従来の剣術の常識からは考えられないものですから、武蔵はあらゆる点で徹底して勝ちに拘った剣豪だったといえます」
確かに、武蔵に関する逸話として、最も広く知られる佐々木小次郎との巌流島決戦でも武蔵は3時間以上もわざと遅れているが、そこは現代のスポーツ競技などとは異なる己の生死を懸けた闘い。それを少しでも自分に利するようあらゆる手段を模索するギリギリの執念を思えば、凄みも増す。
また、巌流島決戦に際し、武蔵は船の櫂を削って木刀を作る。小次郎の長刀よりもさらに数センチ長かったために倒すことができたのだと伝えられている。
「武蔵は刀の長さを隠すために水につけながら一気に打ちかかった。剣の基本である一の太刀にすべてを懸けたのでしょう」(加来氏)
※週刊ポスト2013年3月22日号