東日本大震災が起きた3月11日を中心に、あらゆるメディアで震災から2年といった内容の特集が組まれた。数多くの特集の中から、ジャーナリストの長谷川幸洋氏が、もっとも印象に残った記事を紹介しつつ、「当てはめコメント」問題について解説する。
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東日本大震災から2年。3月11日付の各紙は震災と原発関連の特集記事を競い合った。その中で私が圧倒的に引き寄せられたのは、読売新聞の「東日本大震災2年 戻らぬあなたへ」という見開き2ページの特集だった。
震災と津波で亡くなった計74人の犠牲者の顔写真や遺品に向けて、残された妻や夫、父母、子どもたちなど遺族がいまの思いを語りかける。コメントは1人10数行。だが、短い言葉に人々の深い悲しみがぎゅっと凝縮されていて、読む者の心を震わせる。
1つだけ引用してみる。小学6年生(当時)の女の子を亡くした母の言葉だ。
「卒業式の後、友達と行くはずだったディズニーランド。初めて『着ていく服が欲しい』って言うほど楽しみにしてたのに。今でも運転中、バックミラー越しに、みーこに話しかけてしまうよ。姿が見えないだけで、そこにいるんだもんね。あの日着ていた服、時々抱きしめるんだ。もう、みーこを抱きしめられないから」
コメントとは本来、こうあるべきなのではないか。その人が一番言いたいことを飾らずに、そのまま伝える。
メディアはそれができそうで、できない。ときに新聞やテレビは誰かのコメントをそのまま紹介するというより、記者が事前に作ったストーリーに沿って都合よく話を当てはめてしまう。ストーリーこそが肝心で、コメントは補強材料という位置付けだ。それは週刊誌も例外ではない。
ストーリー優先の「当てはめコメント」が横行するのは、肝心の取材に入る前に編集者や記者がどういう記事を書くか、を先に頭で考えてしまうからだ。だが、記者ならだれでも経験があるが、実際に取材してみると、自分が思い描いていたような話が出てこない場合はしょっちゅうある。
頭で考えて組み立てたストーリーとは現実がまるで違ってしまうのだ。記者の基礎力とは、自分の想定とは違っても、新たな取材展開をできるかどうかにかかっている。現実に対応できない記者はそれまでである。
あくまで自分の思い込みに固執する記者が往々にして安易な当てはめコメントに走ってしまう。ひどい場合だと取材相手に「こういう具合に喋ってほしいんだけど」と内容に注文をつける場合すらある。そうなると、創作記事と紙一重である。
※週刊ポスト2013年3月29日号