5刃のヘッドが上下左右に動く。もちろん、それ以外の方向にも柔軟に動いて驚くほどなめらかに剃れる。まるで替え刃式レザーのようだが、貝印の『iFIT』(アイフィット)は使い捨て。使い捨てらしからぬなめらかな剃り味が受けて、2012年2月発売以来月産3万5000本というヒット街道を突き進んでいる。
創業105年、ポケットナイフのメーカーとして産声を上げてから現在も刃物を中心に取り扱ってきた。同社の使い捨てカミソリはホテルや旅館などで宿泊者向けのアメニティグッズとして断トツのシェアを誇る。
だが、アメニティ向けは日常的にカミソリを使用するユーザーからの評判はあまりよくない。このページの担当者も出張や旅先にはカミソリを持参しているが、そういう人は意外に多い。 貝印刃物開発センターデザイン室の大塚淳(31)がいう。
「一般には“使い捨てカミソリは品質が劣る”――というイメージがあるかと思います。これは部品数を極力抑えたため、複雑な首振り機構を搭載することができないことが理由です」
「カミソリをもっと進化させたい」と常々考えていた同社社長遠藤宏治が新たなカミソリの開発を指示したのは2009年のことだ。
成熟市場のカミソリ業界では、形状や首振り機構などは他メーカーによる多くの特許が存在する。新たな開発は、主に外国メーカーの特許をかいくぐって、これまでにないカミソリを生み出す必要がある。
大塚らには事の重要性が痛いほどわかっていた。そもそも世界初の3枚刃カミソリを実現させたのも同社(1998年)。大塚は興奮していた。
「新しい上に美しいスタイルを創造しなければいけない。難しい挑戦になるが、難しければ難しいほどデザイナー魂に火がついて燃えさかる」
大塚はあるイメージを膨らませていた。手に持ったカミソリは、手の先の延長。ハンドルを手に馴染ませ持ちやすくし、まるで手首のように動きやすいヘッドの先でひげを剃る感覚だ。
このアイデアを具現化したデザインを大塚は1週間で描き上げた。ハンドル部分は大塚の好きなスポーツカーのギアシフトをイメージし、採り入れた。同時に試作品作りも始まった。
開発担当部員は毎日ひげを剃らずに出社。社内で試し剃りをするのが日課となった。開発担当は大塚と同世代。意見がぶつかり合うと口調もエキサイト。周囲からは喧嘩のように見られた。
「これが私たちの協調スタイル。激しい議論が良いものを創ると信じていた」
開発がスタートして約2年。制作された試作モデルは約50本。さらに進化した「プレミアムディスポ」という位置づけを打ち出し、2012年2月に発売を開始した。
「これがあったら、わざわざカミソリは持参しない」とは本誌担当者の弁。消費者からも「これを捨てるのはもったいない」という絶賛の声が届く。
「コンタクトレンズも今や使い捨てが主流です。衛生面を考えれば使い捨てのほうが理にかなっている。今回の『iFIT』をその意識革命につなげたい」
大塚はそういいながらきれいに剃られたあご先をなでた。
●取材・構成/中沢雄二(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年3月29日号