かつてWBCの前身のようなリーグで、日本から海を渡った“サムライ”たちが戦ったことをご存じだろうか。1969年4月28日の毎日新聞(朝刊)には、こんな記事が載っている。
〈グローバル・リーグに参加している東京ドラゴンズは26日、カラカスでオイラーズ(ベネズエラ)と三戦目を行ない、(中略)初の一勝をあげた。〉
グローバル・リーグとは、米国の実業家のウォルター・ディルベックが中心となって設立され、1969年に1年間だけ存在した、世界規模のプロ野球リーグのことだ。
日本は『ハポン・デ・トキオ』(東京ドラゴンズはマスコミが用いた通名)という名前で参加。そのほか、米国2球団(アラバマ・ワイルドキャッツ、ニュージャージー・タイタンズ)、ドミニカ共和国(ドミニカ・シャークス)、ベネズエラ(ベネズエラ・オイラーズ)、プエルトリコ(プエルトリコ・サンファンズ)と5か国6球団が参加した。
日本の監督は森徹。中日時代には本塁打王になった選手で、現在は公益社団法人「全国野球振興会」(日本プロ野球OBクラブ)の理事長を務めている。
「将来的には日本から2チームを送り出すことになっていた。ですからまずは東京。初年度に成功すれば、2年目は大阪からもチームを編成する予定でした。いずれ韓国や台湾からも参加するという構想もあった」(森氏)
当時は「柳川事件」後でプロアマの関係が悪化していた。
ドラフト会議が導入される以前には、プロとアマは毎年、3~10月末までプロはアマ選手と契約しないなどの協定を締結していた。しかし1960年にプロ対談者の社会人への受け入れをめぐって紛糾。“無協定状態”だった1961年4月、中日が日本生命・柳川福三と契約したことでアマ側が激怒し、プロ対談者の受け入れを一切拒否する事態となっていたのだ。
そこで森氏は、「元プロ野球選手の野球への再挑戦と同時に、メジャーを目指す若い選手の飛躍の場になれば」と参加を引き受けた。神宮第二球場で行なわれた入団テストには、引退したプロ選手やアマチュア選手が90人も集まり、矢ノ浦国満(巨人)や鈴木幸弘(サンケイ)など25人が合格した。
カラカスでのオイラーズとの開幕戦では、両軍の監督が球場に国旗を揚げた。
「選手には、試合で負けてもケンカで負けるなと発破をかけました。気迫あふれるプレーを見せてくれて、日本戦は『カミカゼ野球』として人気だったんですよ。ユニフォームの袖につけた旭日旗のワッペンも好評で、米国人には“くれ”とせがまれました(笑い)。オープン戦は3勝4敗と負け越したけど、公式戦は11試合行なって7勝3敗1分の首位でした」(森氏)
しかし、リーグの運営はすぐに危機を迎える。理由は、MLBとの断絶だった。
「元々、いずれMLBの第三のリーグとして昇格する構想で、5年間は無収入でも存続できるとされていた。しかし、メジャーからウィリー・メイズやドン・ドライスデール、サンディ・コーファックスなどの中心選手を引き抜こうとしたことで、MLB側の顰蹙を買った」(森氏)
そのためMLBの球場が使えなくなり、初年度はカラカスを中心にベネズエラで試合を開催した。しかしMLBとの対立は、今度は米国のスポンサーの撤退をも招き、完全に行き詰まる。
資金難となり、選手の給料(月給20万円)も滞った。そのうちにホテル代も未納となり、各国チームが次々帰国。日本も駐ベネズエラ日本大使館に保護される。帰米後、米国とのオープン戦を5試合こなした後、帰国にこぎつけた。
「発想は素晴らしかったが、明らかに準備不足。一企業では資金的にも無理があった。これが成功しておれば、毎年50人の元プロ野球選手の再生の場になったし、日本のプロ野球選手たちのメジャー挑戦はもっと早く実現したでしょうね」(森氏)
(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年4月5日号