それは偶然からのスタートであった。東京鉄道管理局(現・JR東日本硬式野球部)監督を務めた西垣徳雄が、特急列車で国鉄総裁・加賀山之雄と乗り合わせた際、「アマの強豪チームを持っているのだからプロ野球に参入してはどうか」と相談したのが始まり。折しも2リーグ分裂で7球団だったセ・リーグが、8球団制にするため残る一つを探していた時だった。
当時の国鉄は労使関係が悪化しており、加賀山は社員の士気高揚のための団結材料が必要と考えていた。そこで西垣を監督にチームを発足させ、特急列車「つばめ」からスワローズと名付けて、1950年にセに参入する。
ただ最後の参入で、選手確保には苦労した。全国6つの鉄道管理局が持つ社会人チームを中心に23人の選手を集めたが、プロ経験者は遊撃手の中村栄ただ1人(監督の西垣にもプロ経験はない)。アマの強豪とはいえプロとの差は大きく、あまりの弱さに、6月には一度引退していた選手を現役復帰させたが、結果は変わらなかった。そして夏には、高校を中退したばかりの17歳の少年を入団させる。
「甲子園に行けないなら、プロでやった方がいい」と西垣自らスカウトしたこの少年こそが、後に「天皇」と呼ばれる金田正一である。8月入団ながら8勝をあげた金田の活躍で、初年度の最下位だけは免れた。以来14年間、巨人に移るまで20勝以上を上げ続けた金田の存在は、良くも悪くも国鉄を「金田のワンマンチーム」とした。
(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年4月5日号