【書評】『愛と憎しみの豚』(中村安希著/集英社/1680円・税込)
【評者】笹幸恵(ジャーナリスト)
世界中を旅して、人々の生活についてのノンフィクションを書いてきた著者は、これまで各地で豚にまつわる体験をしてきた。
例えば、モンゴルで出会ったリトアニア出身の女性たちから食べさせてもらった塩漬けの豚の脂身は、あまりにも甘く、舌の上でとろけた。彼女たちにとって豚肉料理は、遠い異国の地にあっても手放すことのできない味だった。かくも豚は愛されていた。
もちろんイスラム圏では、豚は汚いものの象徴として忌み嫌われ、憎まれていた。
豚はなぜ、かくも愛され、憎まれるのか。その謎に迫るため、著者は世界各地を旅して回る。
世界中の人々とフェイスブックで連絡を取り合い、興味のある情報が入ったら、バックパックを担いで出掛ける。学術調査のように、宗教的、文化史的な仮説を立てて旅をするわけではない。それゆえ、新鮮な発見と素朴な驚きに満ちた体験記になっており、それがかえって豚という存在の奥深さを浮き彫りにする。
最初に出掛けたのはイスラム圏であるチュニジア。「豚」のひと言を発しただけで人々は嫌な顔をする。それでも著者はめげず、「豚を食べないのはなぜか」と聞く。「コーランにそう書いてあるから」と人々は答える。けれど「コーランはなぜ豚肉食を禁止したのか」と聞くと、答えは様々だった。豚肉は傷みやすいので病気をもたらす、かつて神様が信仰心を忘れた者への罰として人間を豚に変えた話がある……。結構曖昧だ。
本書に「豚の謎」についての理論的な結論はない。その代わり、アラブ、イスラエルから東欧、そしてシベリアと、世界各国を巡って得た具体的な知見が散りばめられている。豚と宗教や革命、詳しくは本書に譲るが、豚と原発事故、豚と共産主義との関係などについても興味深いエピソードを拾い上げている。それらを読むと、人々が翻弄された歴史に、豚もまた翻弄されたことがわかる。
〈豚は、その繁殖力の高さと多産性によって、他のどのような家畜よりも、激しく形を変え続けてきた。近親交配や亜種間交配を適用しやすく、急速で複雑な品種改良が繰り返されてきた動物だった。豚は、その優れた環境適応性により、あらゆる食物を消化して、あらゆる場所で生き延びてきた〉
翻弄されつつも、しぶとく、逞しく生き残るまるで人間のように。豚をテーマにした風変わりな旅行記は、他に類を見ないユニークな世界史となっている。
※SAPIO2013年4月号