長嶋茂雄氏(77)と松井秀喜氏(38)の国民栄誉賞の受賞が決まった。まだ若い松井氏の受賞には議論が百出しているが、ミスターには異を唱える者は滅多にいない。
贈賞を決めた安倍首相自身、「むしろ遅すぎた」とコメントする今回の受賞。そもそも、「国民的スター」の座をほしいままにしてきた長嶋氏が、なぜ今まで受賞できなかったのか。それはこれまで、ミスターが悉く受賞のタイミングを逸してきたという事情がある。
まず、賞が制定されたのは、王貞治氏が756号本塁打で世界記録を達成した1977年。これは「長嶋引退」の3年後だ。国民栄誉賞は、世界的な大記録達成時や、引退や死没などの節目で贈賞される傾向にあるが、長嶋氏の場合、引退という“節目”の際には賞そのものがなかった。
その後も長嶋氏には機会が巡ってこない。巨人監督として優勝5回、日本一2回に輝くが、V9の川上哲治監督には記録上遠く及ばない。ならば世界で金メダルをとって、とばかりに2004年のアテネ五輪で代表監督に就任するが、大会直前に病に倒れてしまった。
だが、長嶋氏自身は受賞を渇望していた。そこには「常に意識していたOに対する、Nの強烈なライバル心があった」と語るのは、ある球界重鎮だ。
「王が第1号となった国民栄誉賞は、何としても自分も欲しかったはずだ。長嶋の王へのライバル心は凄まじいものがある。
長嶋は1963年、打率、打点でトップながら本塁打だけは王に3本足らずに三冠王になれなかったことがある。その翌年、今度は王が三冠王を狙う立場になった。
王は本塁打、打点で断トツだったが、打率だけは中日の江藤慎一と1厘差で最後まで争っていた。そこで長嶋は自分より先に王が三冠王になることのないよう、名古屋遠征の時に江藤を食事に誘い、激励したことがあるほどだ」
また、古参の記者によれば、ミスターはこうも語っていたという。
「美空ひばりが死後に受賞した時には、“まだもらってないのは裕ちゃん(石原裕次郎)とオレか”と漏らしていた」
ようやく叶った悲願。長年の番記者で、長嶋氏と親しい柏英樹氏が受賞のお祝いコールをして、「遅すぎましたね」というと、「いいじゃないか。若い松井と、先のない私がもらうのが丁度いいんだ。ありがたいことです」と喜んでいたという。
※週刊ポスト2013年4月19日号