今やすっかり俳優としての顔がお馴染みとなった赤井英和は、かつて浪速のロッキーと呼ばれた人気ボクサーだった。ガッツ石松など幾人もの世界チャンピオンを育て上げたエディ・タウンゼントが専属トレーナーとなり、日本中から世界チャンピオンになることを期待された赤井は、実力も兼ね備えながら、ついにその座に届かないまま現役を引退した。かつてのボクサーとしての自分を、現在の赤井英和が振り返る。
* * *
世界チャンピオンの称号を得て輝いたボクサーの陰で、あと一歩及ばなかったボクサーもいる。実力がありながら、ある者は時の怪物王者に夢を阻まれ、ある者は病に泣かされてリングを去った。
そんな“チャンピオンになれなかった男たち”の中には、われわれの胸を熱くさせたボクサーも少なくない。その筆頭にまず思い浮かぶのが、「浪速のロッキー」としてファンに愛された赤井英和だろう。
「華麗なアウトボクシングもできるんでっせ。そやけど、プロである以上、お客を沸かして勝たんとだめでしょう」
元々は名門近畿大学でアマの強豪として鳴らし、幻のモスクワ五輪有力候補になった逸材だった。その言葉通り、1980年、愛寿ジム(現グリーンツダジム)からデビューすると当時の日本記録となる12連続KO勝ちをマーク。豪快なフックでなぎ倒すファイトや飾り気のない関西弁で子供からお年寄りまで幅広い世代のハートを掴んだ。
1983年、WBCスーパーライト級タイトルマッチでアメリカのブルース・カリーに挑むが7RKO負け。
「公園のジャングルジムにサンドバッグを吊るして、会長と二人三脚で『関西初の世界チャンピオンになるんや』と頑張ってきた。勝てなかったのは……。世界のリングに立てただけで満足してしまったんでしょうね。負けはしたが、こっちのパンチもよく当たる。これやったら、世界も遠くはないなと思えました」
しかし、世界前哨戦と位置づけた1985年の大和田正春戦で7回KO負け。脳内出血で死の縁を彷徨い、ボクサー人生の幕は下りる。
「やらんでええ試合やったんですわ。世界戦の後、人間不信になるような酷いことがあってもう辞めようかと思とったんです。僕、一回失踪までしてるんです。練習もろくにせんとリングに上がりましたから、あれでは高校生にも負けてましたわ」
辞めようとした理由は済んだこととして多くを語らない。だが、大和田は噛ませ犬と思われているが、後に日本ミドル級王者となる強打者で、いくら赤井でもモチベーションのないままでは危険な相手だった。
序盤から足が重く、動きに精彩を欠く赤井に、セコンドを務めたエディは「赤井、負けるね」と“予言”までしていた。
「リングに上がったところまでしか記憶がないんですわ。気がついたら病院のベッドの上でした。開頭手術をした直後で、皮一枚になった脳みそを触っては強烈な吐き気を催すことを繰り返していました」
その後の俳優、タレントとしての活躍は説明の必要はないだろう。現在、赤井は2009年に不祥事で廃部になった母校・近畿大ボクシング部を復活させ、総監督として後輩部員たちの指導に汗を流している。
●赤井英和/1959年8月17日生まれ。大阪府大阪市出身。1980年プロデビュー。21戦19勝(16KO)2敗。
※週刊ポスト2013年4月19日号